観音寺騒動(その3)六角式目

投稿日 : 2022.02.15


六角式目(別名、義治式目)は観音寺騒動の後、佐々木六角一族が再発防止のための取り決めを作り、事件を起こした佐々木義弼と父の承禎にそれを認めさせたといわれる近江の分国法で、永禄10(1567)年4月に制定されたとされています。

この史料は、昭和11年、京都大学法学部の元教授で、法制史の専門家だった牧健二氏によって阿波国文庫から発見され、同12年11月『法学論叢』誌上において紹介されたのが最初だそうです。

この論文のコピーを京都大学から入手したところ、彼がこの文書を発見した経緯が書かれていました。それによれば、彼は徳島県立図書館の所蔵する阿波国文庫でこの文書を見つけたとあります。この文書は天正11年10月19日の日付が記された写本だそうで、非常に不鮮明で翻刻するのに手間取ったそうです。なお徳島県立図書館に問い合わせたところ、この元の文書は収蔵する阿波国文庫にはないそうで、戦災で焼失したそうです。

その後、その他にも同様な文書が発見され、昭和40年に刊行された『中世法制史史料集』第3巻によれば、この書物の出たときの段階で全部で5種類あり、その出所や内容の詳しい比較がなされています。この書物は牧健二氏が監修し、佐藤進一、池内義資、百瀬今朝氏らによって編集されました。

興味深いことは、『以上の5本を対校した結果によれば、多数の異同の中には、書写によって生じた誤脱とはみなし難い箇所がいくつか見出される、その主なものを挙げれば… 』とある点です。

筆者が見ることができた版は、『阿波国文庫本』、上の史料集にある『大谷本』、そして、『東浅井郡志』にある『三上神社文書』だけですが、関係する事項がみられる『浅井日記』などの記述と合わせて、次の疑問を感じました。

1)この式目は、永禄6年の観音寺騒動を教訓として、再発防止のために策定されたような印象が通説に感じられますが、事件直後ならともかく4年ほども経ってから再発防止を目的に制定したところで、どんな効力があるのでしょう? 

2)こうして関係者が取り決めてサインまでしている文書に、部分的にせよ、『書写によって生じた誤脱とはみなし難い箇所がいくつか見出される』ようなことがあり得るのでしょうか? 国際条約や各種契約書がそうであるように、全く同じ書類に、同じメンバーが同じ順でサインするものではないかと思いました。実際比較してみると一部署名の順序が違っています。

3)関係者の署名のある起請文前書の宛先に、『布施淡路守入道殿』と『狛 丹後守殿』とあるのは何故でしょう?

仔細は長くなるので省略しますが、筆者は、これらの文書は「ある事情で急きょ作られた案文」で、布施淡路守入道と狛 丹後守はこの案文の取次の役目を持った人々だったのではないか? しかし、実際は、この式目は発効できなかったのではないかと想像しました。実際『東浅井郡志』の三上神社文書にあるこの起請文には、『(1)六角家重臣連署起請文案』と書かれています。

主文である条文は、前に紹介した木村靖氏も述べられているように、永禄9年5月から起きた『安国寺質流相論』という訴訟事件が契機になって書かれたとすると、いわゆる『六角式目』が『観音寺騒動の再発を直接防止する』目的とは違っていたとも解釈できそうです。

実際『浅井日記』には暗殺事件直後に関係者が集まって犯人の特定と再発防止の申し合わせの条項が書かれ、それを神に誓う作法で起請文がつくられ、関係者が破って全員が飲み込んだというようなことが書かれています。この作法は『武徳編年集成』でも、信長と家康の「二人の内のどちらかが天下を取った時は、一方は家来になる」という契約が同様な作法で交わされたという記述もあるので、当時そのような慣習があったのではないでしょうか。作者が不明の文書の内容をにわかに史実とすることはできませんが、その文章は、当時の事情から少なくとも再発防止を狙ったものでありそうに見えます。

ここで面白い記述が『浅井日記』の永禄9年2月にあります。足利義昭が覚慶から矢島御所において還俗するすこし前の事です。

『10日 矢島御所の義昭の命で、承禎は三雲(現在の湖南市)から、そして義祐は貝懸から観音寺の子城の箕作の城へ入った。浅井父子は同意しなかったが、他の旗頭は反対しなかった。これで承禎父子は浅井を嫌い、浅井父子も同様だった。(浅井日記)』

これが事実だとすれば観音寺事件で逃げ出していた彼らが、義昭に呼び戻されたということになります。更に

『義昭は佐々木義秀に命じてあちらこちらにいる御家人を招集した。(浅井日記)』

とあり、しかも

『13日 近江の16人の評定衆が誓盟を組んだ。(浅井日記)』

ともあります。

ところで、この近江の16人とは誰だろうと調べてみました。

六角式目では、全部で20名の署名があります。しかし、その中で蒲生、青地、三雲、平井、永田という姓の人が2人ずつ含まれていますので、彼らをそれぞれ同族だと勘定すると構成メンバーの数は15人となります。

また義昭の命として、建前上、オール佐々木六角グループとしてこの同盟が結成されたので、義昭の顔を立てる意味でそのメンバーの中に浅井もエントリーすることにはなったが実際には署名しなかったと考えると、ちょうど全部で16名となり、『浅井日記』にある16名との対応はつけられます。

ここで推測すれば、次のようなシナリオが描けるかもしれません:

この六角式目は佐々木六角一族郎党が結束して義昭の臣下として新たな出発をせよとの命を受けて、進藤山城守が中心になって式目を定めることにした。しかし、いきなり76箇条もある細かい規則をここで定める理由が見当たらないので、ひょっとして『東浅井郡志』に記載されたものが六角式目の原本に近いのではないか? 

そして、体裁を整えるために『安国寺質流相論』の際に使われた決まりを急きょ加えて、形式的には承禎父子を一応佐々木六角家の代表として「観音寺騒動の後を受けて新しく定を決めるので皆は守るように」という原案を進藤が作って承禎らに了承を求めて作業を始め、出来上がった原案を起草に加わらなかった近江北部を支配する浅井に示すために、浅井方の布施淡路守と、恐らくは六角サイドの連絡役と思える狛氏に送った。そしてその後、多少の手直しを付則として追加した。

ところが、永禄10年8月16日、三好方と義治らが結託して矢島御所を攻めるという噂によって、浅井方は義昭を若狭へ移した。そのため、この同盟や式目は発効する前に没になった。

このように当時の状況をみると、永禄6年から10年までの間が平穏に過ぎた訳ではなく、義昭も絡んだ三好と組んだ六角方と朝廷をバックに入洛を目指す信長方の浅井との激しい抗争があったはずです。したがって、この式目の考察で、このような情勢との関係が考察されていないように見えるのが不思議です。しかし、『浅井日記』の偽書説がある限り、このシナリオが学術的に吟味されるのは難しいのかもしれません。『浅井日記』の著者や書かれた目的を知りたいものです。