徳川改姓の代償 (今どきの話かと)

投稿日 : 2022.07.21


永禄12年正月

3日 長橋局の奉書が届いた。徳川家は松平を名乗っているが、先祖は徳川(得川)だった。家康はその名前に戻したいと去年(永禄11年)初めて将軍義昭に申し出た。幕府は近衛前久を通じて家康の願いを天皇に伝え、暮れの9日に許可が下りて長橋の局から奉書などが義昭に届いた。そして今日3日、義昭から遠州の浜松へ通知され太刀一腰が贈られた。(ここにその「御内書」という文書がある。この文書は義昭が家康に宛てたものである)この文書はすぐに家康に届けられ、彼は謹んで受け取った。344b3a83424d934fef5e05a297405a6f4fdcf861.jpg

『年が改まり目出度いことである。お忙しいことだろう。かねて徳川の件を天皇に申し上げていたところ、そのようにしてよいとの許可が出たので、女房奉書が出され、祝いとして太刀一腰を賜る手はずとなったので通知する。正月3日、義昭、徳川三河守殿』

これに先立つ永禄9年12月29日 家康は従5位(下)三河守となりましたが、この経緯については前に述べました。そして、今度は、家康の姓を松平から徳川へ変えることができました。

前年、信長が義昭を奉じて上洛を果たし、家康が送った援軍が活躍して都でも家康の認知度が上がったころのことです。しかし、この改姓にもコネともに相当な出費が必要だったらしいことが『言継卿記』から伺えます。そこでその経緯を辿ってみました。

永禄11年、7月、

28日 誓願寺之西搭玄易、納所慶源が来た。酒を持ってきた。一献を勧めた。三河の大林寺(松平清康、広忠、春姫の霊廟がある)のことで仔細の話があった。

29日 近衛殿から三河の大林寺の件で柳原左大辨が使いに来た。外出していたので会えなかった。倉部が会った。内々に長橋局に了承を得た。女房奉書が出される。

8月、

2日 長橋局に会いに行った。誓願寺が言って来た三河の大林寺の件である。奉書の文面は次の通り。

せいくわん寺たいおう上人、かりそめにくたりの事にて、やかてと候ていまに上らく候はす候、きとのいほりの事申下され候へく候、さては三かはの大りん寺かうゑの事、こんゑとのよりも御申入候事にて候ほとに、なされ候ましく候、この春ゑんふく寺より申され候はせうおうと申候、このよしよく申下され候へく候、しろし、山しなとのへ

8日 近衛殿へ行き、三河誓願寺へ長橋の書状を見せた。

10月,

10日、三河の松平和泉守が上洛したと挨拶に来たので門外で会った。酒代をもらった。彼は(京都の)誓願寺に泊っているという。この寺の和尚も一緒に来た。

11月,

10日、三河の徳川左京太夫の所へ澤路隼人祐を行かせた。今日岡崎へ向かうという。織田の戦いが始まる前に帰るという。澤路隼人はまず岐阜(信長)へ寄ってから、三河の徳川左京太夫を訪ねるという。女房奉書が出された。その内容は次の通りである。

こんど御ほう事につきて、とく川にうちうち仰出されたきとの事にて候つれは、をたのたん正色□ちそう申しとゝのへニ萬疋まいり候、それにつき御せんほうから三日、するするととりをこなはれ候、一しほよろこひおほしめし候、いゑやすにも、のふなかよりよくよりよく申つかはし候やうに、よくよくおほせ事候へく候よし、心え候て申とて候、山しなの大なこんとのへ

そして、この指令に伴って、言継が尾張の水野下野守などへ送った書状の内容が記されています。その概略を引用すると、

「先般禁裏の法要についてお願いいたしたところ、2千疋(2千万円?)を出していただき大変ありがたく女房奉書がこのように出されました。法要は盛大に執り行われました。また、私にも太布10反を頂き大変うれしく存じます。誓願寺からもよろしくと申しております。
11月10日 水野下野守殿、言継」

まず水野信元への書状が記されているのが印象的です。恐らく信元がこの大林寺の件で何らかのテコ入れをしていたことが推測できます。そして、次が家康への形式的な感謝状です。

「去る9月禁裏の法要の費用2万疋(2億円?)を頂きまことに嬉しく存じます。早速尾織田弾正忠にも女房奉書をお送りしました。ご奉公ご苦労様です。また誓願寺へ法要は3日間盛大に執り行われた旨も信長へ伝えました。法華3枚をお送りします。ご覧ください。また座右にと香を一袋お送りします。お楽しみください。報告が後になり申し訳ありません。11月10日 徳川殿  言継」

次は松平和泉守への手紙です。実はこの人物は松平親乗という家康の側近で、言継は弘治2年9月から休暇を取って駿河に住む伯母に会うとともに今川義元に面会するための旅行をして、駿府の新光明院の周等庵で越年しましたが、その時の記述で、

新年正月5日に三河の松平和泉守が同じ寺に居て、酒樽、雁、牛房(ごぼう)を持ってきた。盃を出して数杯飲んだ。 6日 松平和泉守へ酒樽と、あんこう、鯛を送り、大澤左衛門太夫と澤路隼人の両人も呼んで宴会をした。(言継卿記)

弘治2年の正月といえば、竹千代が駿河で元服した時です。どうしてこのタイミングで言継が駿河に来たのかは筆者にはわかりませんが、とにかくこの和泉守と言継はその時からの飲み友達だったわけです。このような人脈と水野信元を通じた信長への働きかけの成果として、家康は徳川への改姓についての天皇のお墨付きを得る根回ができたのでしょう。

「7月に手紙を送りましたがご返事がなかった。遠州の戦いで忙しかったのでしょう。禁裏の法事の件で、左京兆(三好義継)から2万疋を禁裏が受け取り、法要は盛大に行われたので法華を2枚と粗品をお送りした。なお、澤路隼人からもよろしくとのこと。11月10日 松平和泉守殿  言継」

ここで金が三好義継経由で禁裏へ入っているのは、当時彼は松永久秀と組んで信長サイドにいたので、彼が家康からの金を、信長経由で禁裏へ収める役目を果たしたのでしょう。家康も信長を差し置いては何もできなかったはずです。おもしろいのは次の書状です。

「7月に手紙を送りましたがご返事がなかった。遠州での戦いで忙しかったのかと推察いたします。左京兆から2万疋を頂き、法要は盛大に執り行われました。お世話になったことは(天皇に)わたくしからもよく伝えておきました。わずかですが香をお送りします。澤路隼人からもよろしくとのことです。11月10日 鳥井伊賀入道殿 言継」

この鳥井伊賀入道は、家康が駿河に人質になっていたころに財政的に彼らを支えた人で、高敦は、「鳥居伊賀守は裕福な家来だったので、密かに(*竹千代に)金銀や衣服を差し入れた」と記しています。

ここで2万疋とは2億円相当と思われる大金です。この頃は家康も信長の手下でそんな大金をすぐに出せるほどの懐事情だったとは思えません。恐らくこの鳥居がなお財政的に家康を支えていた可能性があり、言継ら禁裏側は、家康の足元を見透かして、鳥居にアプローチしていたことが推測できます。次は鳥居と同じく竹千代に随行して駿河へ行った石川数正への書状です。

「初めてお手紙致します。去る9月の法要について左京兆から2万疋を頂き、法要は恙なく終わりました。この件であなたにお世話になったことがわかりました、御奉公に感謝いたします。わずかですが扇子を3本お送りします。なお、澤路隼人からもよろしくとのことです。敬具 11月10日 石川伯耆守殿 言継

つまり、当時彼は家康の家老で、彼の意向も家康のサイドで大きく影響した可能性があり、結局この大金を出しておくことが家康サイドにとって有用であると彼らが判断してのことだったのでしょう。

そうして、彼らの努力の成果として、

 12月9日 勅許が下り、

永禄12年正月3日 家康に 長橋局の奉書が届いた。こうして、家康は念願の松平から徳川へ改姓できました。それにしてもなかなか高くついた改姓です。ところが禁裏側は相手が金を出せるとみると、更に巧妙な手でお金を要求してくる。

永禄12年5月、言継は、

15日 誓願寺の玄易西堂が来る。三河から書状を持ってきた。木綿一端。一献あり。承仕美濃近日上洛云々、長橋と萬里へ書状と綿一端 後で書状を届けた。
22日 室町殿(義昭)が大納言へ昇進。夜に陣儀開始。
24日 昇進の挨拶に行く。
29日 明智市尉が来て愛州薬(傷薬)所望一包を与え、酒を飲んだ。

7月、
6日  将軍へ暇乞いに行く。(この日、信長は京都へ行って幕府に姉川の戦いを報告し、その後岐阜へ帰還したと高敦は記している)言継はどこへ行くのでしょう? 

彼は長橋の局に会いにいって女房奉書を受け取りました。内容は、

9月5日(は) せんくわうの御13年にて候、御せんほうかうをこてなはれたくおぼしめし候へとも、いかにも ととのほり候はぬまゝ、とく川ちそういたし候やうに、ないないせいくわん寺のちやうらうとないたん候て、ととのほり候やうによくおほせ事候へく候、めてたくやかて御ととのへ候て御のほり候へく候よし、心へ候て申とて候、山しなの大納言とのへ

前の天皇の法事をしたいが金がないので、誓願寺の長老から家康へ頼んだ結果、受け入れてくれたのでよろしくとり計らえというお局さんの命令です。

8日 息子(言經)へ神楽の秘曲を伝授(旅に出るので万が一のことを考えて息子に受け継がせたらしい)。澤路隼人、山本彦二郎、五十河二郎三郎、雑色彌左衛門、孫左衛門に下男3人と人夫の次郎太郎とで昼に出発して、夕方坂本の宿で夕食、夜に船に乗った。
9日 朝 近江の北郡朝妻に着く。夕方垂井の木村甚介所で泊、夕食。扇2本を謝礼として渡す。
10日 垂井出発、午前中に岐阜の鹽屋傳内に宿をとって逗留。扇子と宿代10疋ほど渡す。
明智市尉に近所で出会い、倉部方への書状を頼んだ。武井夕庵が信長の使いとして来た。

そして12日に言継は信長に面会しました。そして三河の家康は駿河の堺に行っているので、しばらく岐阜に滞在してもよいことを信長は夕庵に伝えました。また、信長は12万疋(一億2千万円)を提供できるという話です。そして夕庵に扇子3本と酒代20疋、木下藤吉に扇子3本を贈ったとありあります。

16日 澤路隼人祐が三河の誓願寺へ行くので、使いの二郎太郎に誓願寺への書状を持たせた。禁裏からは段子一端、引合十帖被遣之、予は音信扇、杉原十帖、大文字、一枚、禁御厳重、愛宕札15枚遣之、次、徳川へ太刀と扇5本と書状、松平和泉守へ書状、太刀、扇3本、三社(祇園社)の託宣を、鳥井伊賀守入道へ書状、太刀、扇3本、天神名号を、納所の慶源には書状と扇3本、慶安には扇2本などを贈った。

禁裏から三河へのお返しのようです。

19日 夕方に夕庵(信長の側近)へ使いを送って岐阜城見学を依頼し、明日できることになった。その後三河へ之飛脚を送って返事を求めた。明日使いの僧がくるらしい。夕庵、佐々一兵衛等へ連絡した。
20日 早々に夕庵へ礼のため五十川を派遣、弾正忠殿へよろしくと伝えた。
24日 澤路隼人祐三河から帰京、誓願寺から連絡があり、明後日に返事が来るという。
25日 澤路隼人は知人が京へ上るので(禁裏への連絡を)伝えた。
三河から誓願寺の使いの慶源が来たので、百貫(一貫が10疋?だと、1億円相当か)を要請した。澤路隼人祐と一緒に三河へ行かせた。
28日 三河から飛脚が慶源に来る。酒をふるまって帰した。

8月
1日 朝早く信長を訪ね、門で挨拶をした。澤路が三河から帰った。夕方山の城へ登った。堺宗久など4人、夕庵などと同行した。囃子があり宴会があった。信長も同席した。険しい地形の風景に驚いた。夕方に下山した。
2日 夕庵へ昨日の礼状を送る。書中に一首。

山たかみ、猶(なお)きふ(岐阜)ふかくよその又 似たる方なき この殿つくり

次の句は夕庵からの返事である。

都人 のほりて峯の陰たかき 山もかひある おりにしもあへ

「立派な城だったなあ」に対して「都から出て来て金の相談が成就して甲斐があったね」という返事だろうか?

6日 早々に夕庵を尋ねた。徳川からの代金萬疋(1千万円)分を岡﨑で受け取りたいと申し出た。信長に聴いてから返事をするという。
7日 夕庵へ山本を派遣、返事を催促した。返事なしとのこと。もう一度行かせた。
長橋の局から使いの高屋右京進が、飛鳥井黄門の夕庵あての書状と女房奉書2通を持ってきた。信長からの資金提供に対する礼である。
8日 早々に夕庵へ女房奉書と飛鳥井の手紙をもっていった。信長に見せるように言った。また、一昨日の件を催促した。
9日 夕庵に催促。夕庵から返事が来て佐々一兵衛の状について申し付けた。
10日 夕庵を訪れ、一兵衛を岡崎へ派遣した。勸修寺門跡の使いの難波四郎が来て、すぐ来るように云われた。行ってみると、信長の妹の乳母が酒を届けてきたという。夕食を取って長々としゃべり、飲んで騒いで夕方に宿へ帰った。

交渉が成立したので、ミッション完了の祝賀会だったのではないでしょうか?

11日 夕庵の手紙が届いた。佐々一兵衛、小栗又六の書状を読んだ。三河では50貫(5千万円)を受け取れなかった。京都で200貫(2億円)を渡すという。澤路隼人が三河から帰った。誓願寺の長老の書状と禁裏へ300疋、長橋へ100疋、自分へ100疋くれた。自分には更にがんび2帖が送られた。水野下野守の返事があった。禁裏へ2千疋(2千万円)献上し、自分には太刀、太布10端が送られた。
12日 夕庵にたびたび澤路を行かせるが留守だった。
13日 夕庵へ澤路を行かせると、2万疋(2億円)の小切手を丹波五郎左衛門に申し付けているので、丹波から渡すだろうということである。暇乞いに回っていたので後で聞いた。
夕庵から丹波五郎左衛門の書状が届き、大文字屋から2万疋を受け取った。三河から五十河がかえってきた。石川伯耆守は永楽銭50貫が送られるという。すぐに夕庵に連絡して岐阜城へ登った。佐々一兵衛の所へも行った。夜に夕庵が来て三河から50貫が着いた。まだ残りの丹波からの2万疋の分は明日の朝返す。残りの150貫分ということになる。
14日 夕庵が信長に暇乞いをした。信長に挨拶に行ったが挨拶はいらないということだった。

『言継卿記』は10月が欠落しているが、11月、

7日 長橋局から奉書が(4通)届いた。(内容は先の法要の為に水野下野守が2千疋を提供した礼状、同様に誓願寺の泰翁が300疋を提供したことへの礼状、更に徳川左京太夫が2万疋を提供したことへの家康への礼状、そして泰翁が長橋の局に100疋を贈った礼状を出す様にという指令である)

言継は既に礼状を前に記しているので、前の礼状は下書きで本当の礼状はこの奉書が出てから送られたのでしょう。ここで言継は再び岐阜を訪ね14日の夜に信長は好斎と夕庵を通じて2千疋(2千万円)を支払った。また知行の不払い分を3千疋も合せもらった。礼をしようとしたが返事がないので夜に帰路に着いたとあります。信長は先に12万疋を出せるといったのに、実際は出さないので言継は催促に岐阜へ乗り込んだのでしょうか? 言継は少々立腹の呈に見えます。

高敦は女御奉書について次のような注釈を添えています。

伝え聞くところによれば、応仁以来朝廷も幕府もあってもないに等しく、たまにちょっとした贈り物をする者がいると、御所も幕府も大げさに扱い、女御が奉書を将軍に遣わすことになっていたそうである。これは衰退した世の流儀で、その昔とか、今のような太平の世の中での品格で捉えてはならない。

品格! 最近はこの言葉は死語になっているようです。