小早川秀秋の寝返り

投稿日 : 2023.07.10


1600年、学校の歴史の授業で、年号を覚える唱え方すら覚えられなかった筆者も、このきりのよい数だけは覚えられました。

この戦いで東軍を迎え討とうとした西軍は、小早川秀秋の寝返りによって、あっけなく敗退してしまいました。

高敦はこの寝返りの理由をどのように記しているでしょう?

『武徳編年集成』では巻46から48に、この戦いが記されていますが、いきなり、「この戦いは自分の著した『武徳安民記』に詳しいので、そちらを読んでほしい。ここではそこで書き忘れたことや、関係のない細かいことを記した」とあり、いささか拍子抜けになりました。しかし、よく読むとさらりと要点が書かれています。

そこで、ここでは国文学研究資料館で公開されている『武徳安民記』を参照して、小早川秀秋が東軍へ寝返った理由についての高敦の見解を見てみました。

『武徳安民記』は歴史書というよりは、この戦いに至る経緯や、戦況、戦後の経緯などを、順にサブタイトルを付けた節に分けて、詳しく説明したものです。

次の二つの節に関連事項があります。。

1)金吾秀秋素性並びに回忠由緒之事(巻20)
2)関原大戦賊徒敗北之事、並びに金吾黄門裏切之事、附 兇徒諸将戦歿之事(巻21)

裏切りの経緯はおよそ次のようなことだと、高敦は記しています。

まず、小早川秀秋は、秀吉の正室、北政所(通称ねね)の兄の、木下家定の息子で、小早川家に養子に入った人です。最初は義父の領していた筑前を領地として相続しました。

北政所は、秀吉が存命中から家康を見込んでいて、彼女の考えと、側近の勧めもあって、彼は家康のシンパとなっていました。

やがて、彼女は、側室の淀君が秀頼を生んで発言力が大きくなると、淀君サイドにいた石田三成などによる不穏な動きを察して、甥の秀秋には、「注意せよ、何が起きても惑わされるな」と忠告していたそうです。

その後、秀頼の名で筑後も与えることなど三成の工作もあって、秀秋はいったん三成方に付いて働きました。しかし、密かに家康にも通じていて、三成もそれを知っていて彼に不信感をもっていたようです。

そんな中、三成方が、秀秋を討つ計画もありましたが、その情報を漏れ聞いた黒田長政が、家来を平岡石見守重定の元に行かせ、秀秋が家康に付くように工作しました。そんなことができたのは、平岡が、長政のいとこの婿だったからです。そうして秀秋は再び家康サイドにつくことになったそうです。

このことについて、高敦は『武徳編年集成』の巻46でも、

『慶長5年7月26日:深夜、金吾中納言秀秋の長臣の平岡石見守重定が、上野の小山に来て、秀秋は、大阪で石田方に付いていたが、心変わりして家康方に着くと連絡したという』と記しています。

さて、関ヶ原の戦いのときに、秀秋の大軍は高宮という見通しのきく場所に陣取って戦況を眺めていました。

石田らは彼の行動を不審に思って、「秀頼が15歳になれば秀秋を関白にする。筑前と筑後はそのままに、播磨も与える。また近江の10万石も与え、稲葉と平岡にも10万石を与える。当座の資金として稲葉へ金300枚、平岡にも300枚を与える」という条件を秀秋に提示しました。

それを見て秀秋は、秀頼が15歳になるまでは毛利輝元が執政を受け持つと約束していながら、今は自分にというような、子供じみたことを言うとはどういう了見かといって、さっそく黒田長政へ密使を派遣し、明日の合戦では三成を裏切ると伝え、長政もそれに対応しました。

しかし、長政は、秀秋が本当に約束を守るかどうかを監視し、もし約束を守らなければ彼を討つようにと、以前秀秋の家来だった大音六左衛門重成を秀秋の陣に派遣して、戦いが始まるまでとどまらせたそうです。

「秀秋はやはり石田を裏切らないのでは」、という見方もあったそうですが、戦いが始まると彼は約束通り、西軍から寝返って、そのためにこの戦いは東軍が勝利しました。

『武徳編年集成』巻47には、

『慶長5年9月15日:家康の大軍は関が原へ臨み、井伊直政と関などや、福島の先発隊などが奮戦しながらも、まだ勝敗が決まらないとき、石田方の金吾秀秋が裏切ったという』とあります。

このような高敦の話によれば、実際の戦闘の仔細はともかく、秀秋が裏切った理由は、どうやら、叔母にあたる北政所、ねねが、かねてから秀秋にしっかりと言い聞かしていたことが彼の頭に残っていたことと、黒田長政の工作によると思えます。

これが本当なら、秀吉の正室として、侍女たちの目も含めた女性の目で、家来たちの日頃の動向を冷静に見続けていた彼女の勘と、淀君に対する彼女の感情が、天下分け目の戦を決着させたとも言えそうです。

なお、ウキペディアには、

『この秀秋の離反については、当初から家老の稲葉正成・平岡頼勝とその頼勝の親戚である東軍の黒田長政が中心となって調略が行われており、長政と浅野幸長の連名による「我々は北政所(高台院)様のために動いている」と書かれた連書状が現存している。

白川亨・三池純正らの、「高台院は西軍を支持していた」という異なる説やその他傍証もあり、この書状の内容について研究が待たれている(内容では北政所のために東軍につけとは直接言ってはいない)。

また、本戦の開始前より離反することを長政を通じて家康に伝えており、長政は大久保猪之助、家康は奥平貞治を目付として派遣している』とあります。(*高敦は、長政は大音六左衛門重成を派遣したとあります)

この概略は高敦の記述と矛盾しません。しかし、この説明には『武徳安民記』の引用はありません。

さて、高敦は秀秋の後日談を巻49に書いています。

慶長7年(1602)8月30日

〇金吾黄門秀秋は、関が原で徳川方へ転じ、備前と美作をもらった。非常に豪勢な暮らしをしながら、病気に侵されて、元老の稲葉佐渡守正成などが愛想をつかし、家来たちの多くも彼から離れた。先月以来、彼の病状が非常に悪化して、岡山城下で、夕方に頻りに炭を売りにきたり、鮨を売りに来た者が門を開けても、姿を現さなかった。また、彼は、突然大阪の館を飛び出して、その日のうちに岡山の城へ戻たりもした。

殿様が、屋敷に物売りが来て出てくるとは、ちょっと考えにくいのですが、とにかく彼の病気が脳に支障を起こさせたのでしょうか?

岡山は、西の文化の領域でしょうから、西軍を裏切ったやつ、ということで、なかなかバッシングが激しかったのでしょう。おなじもらうのなら、東国のどこかをもらっておいた方が、よかったのかもしれません。「裏切り」はもっとも恐れられる行動ですから、徳川さんは彼に裏切ってもらって勝はっただけですわ、なんていわれるのもぐわい悪いので、立場上一応いじめておこうと、人事課の誰かに陰湿ないじわるをされた可能性もありますね。