本能寺の変

投稿日 : 2023.07.02


天正10年(1582)6月2日、織田信長が明智光秀によるクーデターであっけなく命を落としました。

この有名な「本能寺の変」についての多く人々や専門家の興味は、「なぜ明智光秀が信長を裏切ったのだろう」という点に集まります。

この事件の背景など、非常にたくさんの説があり、ウキペディアに詳しく紹介されています

高敦もこの疑問を明かそうとした形跡が、『武徳編年集成』にうかがえます。

彼がこの歴史書などを準備して完成させた時期から、この事件は120年ほど前と思われますので、今の私たちに直せば、1900年ごろの事件ということになります。これは筆者の父が生まれたころに相当します。ですから、高敦は当時、いろいろな生きた情報を関係者などから知りえたはずなので、そのようなことを念頭に置いて、彼の記した関連事項を眺めてみました。

まず、事件当日について、彼は次のように記しています。

6月2日 明け方、光秀は本能寺を包囲した。信長は激怒して、西の方の本堂の番人と護衛の馬廻りの兵と共に防戦し、自分も矢で多くの敵を射殺した。

信長方は必死で防戦したが、森蘭丸長定、同坊丸長隆、同力丸長氏、小川愛平、金森義八、魚住庄七、今川孫次郎、狩野又九郎、薄田與五郎、落合小八郎、伊藤彦作、久々利亀丸、山田彌太郎、飯河宮松丸、種田亀之丞、柏原鍋丸兄弟、祖父江孫丸、大塚彌三郎、同又市郎、平尾平助、同朋、鍼阿彌、馬役・屋代勝助、伴太郎左衛門、伴正林、村田吉五、中間藤九郎、藤八、岩蔵新六、彦一彌六、熊若、駒若などが命を落とした。(このリストとウキペディアに掲載されているリストと比べますと、大方は一致しますが、名前の一部が違っていたり、高敦の方が人数が多かったりしています)

高橋虎松は厨口で戦死した。中尾源太郎、小倉松壽、湯浅甚助一忠は別の宿から駆けつけたが、戦死した。

右大臣信長は火を発し、自害した。享年49歳。(高敦注:信長はじめ戦死者122人の遺骨は、貞安和尚が集めて阿弥陀寺に収容した)

興味深いことに、この事件を身近で見聞した山科言経は『言経卿記』に、事件当日とその後の経過として、洛中の大騒ぎが数日続いたこと、続いて13日の山崎の戦いで光秀が敗北し、15日には、彼が醍醐に隠れていたところを、郷人の一揆で討たれて、その首が本能寺に運ばれたと記しています。

さらに彼はこんなことも記しています。

17日 (*明智)日向守の家来の齋藤内蔵助〈利三)が、今度の謀反の張本人である。堅田で捉えられて、都を引き回され、六条河原で処された。

言経は「張本人である」とこのように断定しています。この断定にはそれなりの根拠がありそうです。

何しろ言経はこの事件の前の月の12日の条に、『白川雅朝の妻から平家物語9巻を受け取った。信長の側室のお鍋の方のために一冊を写本した』とあるので、信長や関係者たちの当時の状況の相当確かな情報を得ていたようですから、この根拠の確度は高そうに思いました。

(ちなみに齋藤利三なる人物をウキペディアで検索しますと、父親は斎藤利賢という斎藤道三やその息子の斎藤義龍に仕えた武将で、彼の後室は稲葉一鉄の娘で、斎藤利宗、斎藤三存、それに末娘の福らを産んだとあります。福は稲葉重通(一鉄の子)の養女となり、江戸幕府の第3代将軍徳川家光の乳母(春日局)となりました)。

ここで筆者がすこし気になったのは、『明智軍記』巻9の「甲州武田断絶事、附光秀失面目事」の記述です。意訳してみました。

信長が武田を滅ぼして古府を訪れた時のこと(*これは高敦によれば天正10年4月3日のことになります)、稲葉伊予入道一哲(鉄)に信長は「お前は今度の伊那の戦いでさっぱり働かなかったのはどうしてか」と尋ねた。一鉄は「いやあ、実は家来の齋藤内臓助〈利三)と那波和泉守が光秀の方へ逃げだしましてね、那波だけはとり戻したのですが・・そんなことでちょっと混乱してまして・・」と言い訳をした。

信長は光秀を呼び出して、「おい、お前は自分の兵の半分を温存している上に、稲葉から聴いたのだが、下心を巡らして齋藤内臓助に高知を与えるとか言ったようだが、どういうことか。けしからん」と叱って、自分で光秀の顔を3~4発殴った。光秀は信長に世話になっているので我慢して引き下がった。(筆者注:当時の高知は、長曾我部の支配下にあった)

これが本当の話ですと、彼の下心は信長がいる限り実現しそうにないですね。

ウキペディアでは、齋藤内臓助〈利三)の事件関与説は、『言経卿記』の記述が根拠とされ、陰謀説に分類されていて、あまり重きを置かれていないようです。筆者は、この方面の二次史料も一次史料と同列に扱って学問的な吟味ができれば、『四国征伐の防止説』との関係で自然な解釈が生まれそうに感じました。

高敦は、問題の「なぜ」については言及してはいません。そして、
『信長父子の滅亡は諸書に詳しくあり、徳川家には特に関係がないので省略する』と断っていますが、彼として色々調べたがわからなかったためか、もっと違った書けなない理由があったかのは、興味深い問題です。この切り口の研究はないのでしょうか?

去年奈良で大きな暗殺事件がありました。この事件では、本能寺の事件と同様、WhenとWhereは明らかですが、HowとかWhyについては、陰謀論やいろいろ諸説紛紛です。当時と同様、多くの人々が現場で目撃したはずです。また、当時と違って、無数のスマホに写真や動画が収まっているはずです。たまたまその場を通りがかった、現在の言経卿がウムウムと記録を残しているでしょうか? 100年ほど後に、無数のガサネタばかりが一次史料として残されていなければいいのですが。

さて、数日前には、なんとあのロシアで、クーデター未遂事件がありました。こちらはWhen、Where、Howはわかっていますが、Whyはそれほど明らかではないようです。この事件も世界史の謎として刻まれるのでしょうか? この種の事件がこれから頻発するような、社会の不安定性が高まっているような気配があります。