都の大スキャンダル:イケメン貴族の処刑(その4)

投稿日 : 2023.08.31


いろいろな戦乱を勝ち抜いた信長は、ついに天正8年(1580)閏3月、宿敵だった本願寺勢力を抑えるのに成功します。

高敦は『7日、天皇の意による公卿の近衛前久、観修寺晴豊、庭田重通の斡旋によって、大阪本願寺光佐が信長と和睦した』、同年8月『12日、摂津の大阪本願寺新門跡、教如は自分の城と木津丸山と廣芝正山などにある51箇所の城を開けて紀州の雑賀へ退去した。これで信長は摂津を完全に征服した』と記しています。

このころは天皇や公家たちはほとんどミイラ状態、信長に逆らえなくなっています。

正親町天皇は次第に仕事を息子の誠仁親王に任せるようになったそうです。この皇太子はなかなかやり手だったので、天皇は彼に譲位したかった。しかし、譲位するには莫大な資金が必要だそうで、自分で賄えなかったのです。

信長としては、足利義昭を放逐したのち、ついでに天皇も・・と考えたかもしれないのですが、やはり、天皇は自分が上洛する機会をくれた人なので、手荒なことはさすがにできない。でも、・・・違う方面から攻めることにして、天皇と取引をしたのではないかと筆者は想像しました。天皇には誰でもが直接は会えないですから、誰かを通じて、、

「そろそろ皇太子に即位させてはいかがでしょう? 」と。

天皇も「ウム、ウム」。彼としては望むところです。

「ただ一つだけ条件が・・・あるそうでございます・・・、いや、それはですね・・・皇太子殿の女房殿なんですが。あのお方の実家は本願寺系統なんで、この際、なんとか女房を外して、実家関係に戻してもらえませんか。そうしていただければ・・・と信長は申しておりまして・・・。なんでも本願寺さんに話は通してあるそうです・・」というように。

天皇は息子に伝えると「嫌じゃ」、当時彼は天皇の代役を務めるほどになっていたそうです。彼は何かを警戒していたのでしょう。

しかし、天皇は、信長には逆らえないし、譲位もしたい。そこで結局、皇太子の女房は外されることになったのでしょう。

ところが信長は天正10年(1582)6月2日に本能寺で殺されてしまいます.

『言経卿記』天正10年8月2日の条によれば、女房 為子は誠仁親王の同意の上、興正寺門主・佐超顕尊の妻(西御方)となります。

ということは、この婚姻は信長の死からわずか2か月後のことです。

為子さんの婚姻の前の5月19日、言経が山科にある土地の税金を秀吉に支払ったと『言経卿記』にあることです。つまり、これは後に太閤検地と呼ばれる作業が、すでに信長の名で実質的に秀吉によって始まっていて、言経の知行についても作業が終わっていたと想像できます。

信長の突然の死を受けて世間が騒いでいる中、それとは関係なく事が淡々と迅速に進んでいる感じがします。信長の意向を実際に実行するのは秀吉の係でしたから、譲位の手筈についての根回しも彼が誰かにしていたはずです。

高敦もいくつか例を示しているように、秀吉は幇間生活を生き抜いてきた人ですから、人の心を読む抜群の能力と実行力を備えていた人で、高敦によれば、明智光秀に「おれは彼のようにはできないな」と言わせたとか。また、家康の宿舎に夜中に突然現れて、寝所に夜食をもって乗り込んで秘密談義をするような人だったらしいのです。