都の大スキャンダル:イケメン貴族の処刑(その5)

投稿日 : 2023.08.31


信長亡き後実権を握ったのは秀吉です。彼は自分が天下をとれるチャンスが来たことを悟り、いよいよ、自分の計画に基づいて譲位作業を実行し始めたのでしょう。根回しはすでに終わっています。もう信長に伺いをたてる必要はなくなりました。

ここで筆者が気になった人物がいます。それは皇太子の正室、勘修寺晴子さんです。彼女は阿茶の局と言われた人で、皇太子の1歳ほど年下でした。彼女は日頃、誠仁親王の女房の為子さんをどう思ってこられたのでしょう? 阿茶の局の願いは、ただ一つ、彼の息子を天皇にすること。彼女にとって為子さんはちょっと目障りな人物だったかも知れません。また、彼女の希望を果たす意味では、皇太子も実はどうでもよかったのかも知れません。

そこを嗅ぎ付けた秀吉は、信長の耳に。そして彼は晴子さんに接近した? 「そろそろ皇太子に即位していただきましょうか?」と、でも、その真意は、即位の準備はしましょう。でも、誰が即位してもいいように・・・・。正親町天皇は自分の息子のことと思ったはずです。

秀吉はまず検地を本格化させます。それは彼の経済基盤を固めるためです。天下を取るということは、民のためではなく、税金を集めるという巨大な利権を手にするためです。民のことなど一かけらも備えていないもので、民のためと称して何かしても、所詮人気取りの必要経費なのです。また、よくあることですが、下積みから成りあがった人は、自分が実権をとれば民のために尽くすというよりは、手のひらを返すように民に対して猛獣化する傾向があり、民は迷惑するものです。

秀吉は信長が殺された後、間髪を入れず検地を実行したようです。「信長の意向を継承する」と宣言しながらも、その心はそんなことはなかったはずです。

高敦は天正13年(1585)3月10日の条で、次のように記しています。

儲王(*皇太子)周仁は成人したので即位してもよい頃だが、院御所が廃止されていたので居場所がなくなっていた。そこで羽柴権大納言秀吉は天皇の意向を受けて、「前田徳善院玄以を民部卿法印に任じて修理職の太夫に就任させ、院御所を再建させるので即位して昔のように儀式を執り行ってほしい」と申し出ると、天皇は非常に喜んで秀吉を内大臣正2位の叙した。大変な厚遇である。

この時まだ皇太子は即位してなかったのです。彼は秀吉の計画を見抜いて、それが為子さんを通じて彼女の実家の関係者に伝わっていたかも知れません。秀吉もこの皇太子はちょっと困った人物に映っていたのか?といって直接皇太子に手を出すのは目立ちすぎます。