都の大スキャンダル:イケメン貴族の処刑(その6)

投稿日 : 2023.08.31


信長は天皇には義理がありますが、秀吉にとっては何も気にする要素はありません。
秀吉にとって本願寺につながる為子さん系統は好ましくない存在です。どうしよう。まず、事の順序として、彼女の関係者を都から放逐して監視しようと考えたのではないでしょうか?

そこで問題の勅勘事件が起きた。 言経にとっては、父親の死後、山科の知行分について引き続き受け取る約束を信長にもらっていたので、信長を多少頼りにしていたのですが、それが今やふいになってしまっています。いろいろ工作をしても秀吉はいい顔をしませんでした。知行も剥奪されそうな気配を感じていたのが、彼の日記『言経郷記』から感じられます。

そうしてついに、『天正13年6月19日、身上不相済、住宅ヲ出了・・・』とあり、結局為子の夫の本願寺関係の世話で、一同堺の明王院へ移ったことが日記に記されています。

つまり関係者家族もろとも都を放逐されたわけです。その時、言経と共に、義理の二人の弟の冷泉為満と四条隆昌も都を後にしました。

このために山科家では跡継ぎが無くなったので、四辻家から養子をとり、文禄3年までこの人が山科家を継ぎました。

ところで、誠仁親王の方はといえば、譲位を待たずして天正14年7月24日に亡くなります。どうやら急死だったらしく、天皇さえも驚いて食が進まなくなったとかいうのです。息子への譲位が吹っ飛んでしまったので当然でしょう。

『言経郷記』には、『天正14年7月25日 親王 御年丗五、未刻 御他界云々、言語道断 々々、此間御不豫也 云々』と簡単に記されています。死因は「不豫」つまり病気だったようです。でも天皇までもが驚いたのですから予想されていなかったようです。

誠仁親王の死因を調べてみましたが、筆者にはわかりませんでした。

死亡時刻が未刻とは真昼間。言経は言継と同様、医術も心得ていた人ですから、病気なら必ず病名を記しているはずです。でもわからなかったのでしょう。何も書かれていません。皇太子の死は不審死の香りもします。まさか皇太子が病気の時に薬に毒を盛って、または長い期間少しずつ食事に混ぜて暗殺したなんてことがあれば大変です。もしそんなことだったら、それができるのは最側近の誰かの関わる意図的な仕業に限られます。

ともかく、これで晴子さんの期待通り、息子が次の天皇になることが約束されました。即位の準備もすでに万端だったことでしょう。実際彼女の息子は天正14年11月25日に即位して、後陽成天皇(ごようぜいてんのう)になられました。

皇太子の急死については、女官たちの日記、『御湯殿上日記』から分かるかもしれません。ただ、塙保己一によって編纂された『御湯殿上日記抄』では天正10年正月6日以降、天正13年の末までの記述はありません。また、国立国会図書館所蔵の『御湯殿上日記』のタイトルを見ると、第16冊に当時の記録がありそうです。しかし、天正11年3月で後はなく、第17冊では天正14年からとなっていて、問題の時期の記録は欠落しています。

ウィキペディアによれば、皇太子の死について、『秀吉が誠仁親王の側室と密通したことに抗議して自殺したのだ」あるいは「誠仁親王に代わって秀吉が天皇になるつもりだ」などという噂が流れたなどとした説があるそうです。火のない所に煙は立たぬといいますし、巷のうわさも何かを暗示しているようです。秀吉が絡んでいそうなのは気になります。