都の大スキャンダル:イケメン貴族の処刑(その8)

投稿日 : 2023.08.31


こうして、この事件は決着しました。家康の裁定について、恐らく都の人々は、「まあ彼はしょうがないな。それにしてもあの歯医者はけしからん。でも殺されたのはその二人だけだって、家康ってなかなかいいじゃないか」と、多分家康はこの事件で非常に株を上げたはずです。芋づる的に名前が出てこないかとヒヤヒヤしていた人々も、ほっと安堵したでしょう。ちなみに恩赦を受けた二人は家康の知り合いだったとかいう話もあるようです。

それにしても教利君、どうしてそこまでやっちゃったの? 

教利の官位は正五位下・左近衛少将ですから、天皇の親衛隊のような職で、公卿への出世コースになっているそうです。しかし、それを知りながら多くの女官たちとの密な交流から、出世より自らのアイデンティティーを自分の美貌を生かした形で自由に表現する道を選んだわけです。彼が子供の時に親にある意味で捨てられて、たらい回しにされたという寂しさがゆえに、彼にこのようなデカダンな心理状態が生まれた可能性もありそうです。

最初に述べた木村氏の論文で、氏はもう一人の重要人物の広橋の局も、宮中の退屈な生活にうんざりして、自由な空気を求め、反体制的な行動に出た結果だろうと述べています。結局彼らはある意味、現代的な感覚を持った若者たちだったと言えそうです。

高敦は、この事件の発端は、慶長13年(1608)の春から夏にかけて、『和泉の多武嶺の大職冠(*藤原)鎌足の廟の前に生えていた5~6間の高さの松の老木がわけもなく裂けて、松脂が流れ出た。また、楼市というところで大職冠の像が壊れたという噂が流れた。土地の人の話では、これまでに7回壊れることがあり、その時はいつも朝廷に凶事が起きると伝えられてきたという』と記し、『そこで僧たちは怪しんで僧の中でも清純な僧を選んで像の前に行かせ、戸張で囲んで像を撫でるとやはり皮が裂けて膿が流れ出し異様な香りを発した。(*「清純な僧を選んで」というところが意味深長です)

早速京都へ行ってこれを天皇に報告した。公家たちは非常に驚いていろいろ調べた結果、御所の奴婢の内部告発として、「烏丸参議左大辨光廣、花山院少将忠長、徳大寺少将實久、飛鳥井少将雅賢、大炊御門侍従頼国、難波少将宗勝、松本少将宗澄、猪熊侍従教利などのイケメンたちが、広橋の局(大納言兼藤の娘)、唐橋の局(中院大納言道村の妹)などの官女5人を伴って京都を遊びまわり、密かに乱交パーティーをしていた」という』と記しています。そうして、この事件がそのように決着すると、この怪奇現象も無くなったそうです。

この事件は、後の公家に対する厳しい法度を決めるきっかけとなり、公家社会が完全に幕府の管理下に置かれたという意味で、大きな政治的な意味を持ったと言われています。

ちなみにこの時の怪奇現象は8回目に当たります。8回あることは9回あり・・・ 今でもこのような怪奇現象が何かの予兆になるのでしょうか? (完)

付記:山科言経が家康のお陰で復権できたのには、理由がありそうです。それは拙文『徳川改姓の代償(今どきの話かと)』が参考になるはずです。なお、その後、言経は家康のもとで、大阪の陣では一種の諜報員として働いたそうです。