巻1 天文11年11月~天文15年12月 竹千代(家康)誕生
投稿日 : 2016.01.16
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このころの世情については、こちら。
天文11年(1542)
11月小
26日 三河の額田郡、岡崎城にて、松平廣忠の長男が誕生した、幼名竹千代(*後の徳川家康)。
母(*後の伝通院)は三河の碧海郡、刈谷城と尾張の知多郡、小川城の城主、水野右衛門太夫忠政の娘である。蟆目(*魔除けの弓を射る係り)を石川安芸守源晴兼、胞刀(*へその緒を切る係り)を酒井雅楽助源正親が務めた。
〇この年、勝間田新六政行(遠州の生まれ)が松平廣忠の家来となった。彼は幼少より松平清康に仕え、当時三河の寶飯郡牛窪に住んでいた。(政行は天文18年からは今川家の家来となり、遠州の内田、久良美、駿河の瀬名を領地とし、内田近江と改称した。今川氏真が滅びてからは竹千代に仕えた)
〇今川治部大輔義元は遠州の城備郡、高天神城を小笠原弾正に授けた。
この城は応永23年今川範政が築いて山内玄蕃に守らせた。文安3年からは福島佐渡、福島上総が続いてこの城を守り、文亀年代に小泉左近が城主になったという。
天文12年(1543)
正月大
8日 弦月(*上弦の月)が晨(*翌朝)まで見えた。
(西川如見によると、月の軌道は太陽に比べて纒度(*twist)の差が大きいものである。しかし、『史記』の『孝景本紀』によれば、月が北辰の間に出るとか、または8日の月が翌朝まで残るまで振れが大きくなることは起こりえないので、これは月ではなく妖星の類で、月のように地上に20~30町連なって残月に見えたものだろうということである)
7月小
12日 水野右衛門太夫忠政が死去し (法諱(*ほうき)大溪賢雄)、長男の下野守信元が家督を継いで尾張の小川、三河の刈谷の城を守った。
8月大
25日 応仁以来、天下が乱れて瓜のように割れ、豆のようにバラバラに分かれていたが、このところようやく一つにまとまる気配が感じられる。
島津修理太夫義久の領地の大隈に属している種子島へ、南蛮船が貿易のために入港した。
彼らは戦いの勝敗を早く決められそうな火砲というものを携えてきた。この船はヨーロッパの一地方にあるポルトガルの商船である。このとき彼らは明の五峯という儒学者を乗せてきた。島津兵部丞時尭は彼らから鉄砲2挺を買い付けてその技術を学んだ。これが日本へこの技術が伝わった始まりである。
〇そのころ中国や朝鮮でも砲術を知る者はいなかった。柏原天皇の汞(*永)正14年(1517)は、明では武帝の正徳12年に相当するが、このときフランクの船が広東に入港し、その地の役人に火薬と共に授けたというのが應麟の説である。その後、チベットやヨーロッパから中国へ火器が渡ったことが『大工開物武備志通雅』などの書物にある。
朝鮮へは天正18年(1590)の宗対馬守義智が贈ったことが『懲毖録』に書かれている。『八幡愚童訓』や『太平記』には、亀山天皇の文永11年に蒙古が襲来して鉄砲を発射したと書かれているが、今の砲術とは違っていて、旋風単梢蹲(*投石砲)の類であったことを新井筑後守君美(*新井白石)が『本朝軍器考』に詳しく論じている。
鉄砲の伝来は徳川家のこととは直接関係はないが、重要な武器がわが国に伝わった最初のことであるから、その概要をここに記した。なお、天文13年の巻末の記述も参考にして欲しい。
10月大
朔日 松平兵庫守一忠が死去した。(法諱 玉心淨金)、この人は徳川和泉守信光の5世、兵庫守一宗の嫡子で、長澤家を名乗っている。
2日 松平内膳正信定が死去した(法諱 詳雄道喜)。 この人は徳川出雲守長親の二男で、桜井家を名乗っている。
〇附考
北条氏康は松山城から小田原へ移り、伊豆の箱根権現、鶴岡八幡宮、三島大明神に寄進し、川越城で大勝した時には剣や馬を捧げ武運の継続を祈願した。氏康は非常に軍事作戦に秀でていただけでなく、弓矢剣術に優れ、風雅の道にも通じていて、優れた歌をたくさん詠じている。
天文11年(1542)5月初旬の夕刻、彼が高楼に登って山野の景色を眺め、木の間からこぼれる月の光を楽しんで涼をとっていると、どこからか野狐が周囲にやってきて立ち止まって数度「コンコン」と啼いた。これを聞いた家来が、「夏に狐が啼くのは不吉な兆しだ」という田舎のことわざを主人に伝え、「歌なんぞ詠じている場合ではありません、すぐに弓で射殺しましょう」と進言すると、氏康は取り合わず、
「夏はきつ子(*ね)に鳴く蝉のからころも おのれおのれが身の上に着よ」
と大声で詠むと、狐の鳴き声が弱くなってやがて聞こえなくなった。しかし姿は消えずにいるのが見えた。
あくる朝、若い衆が高楼の周りに行ってみると、狐は空しく死んでいた。どうやら狐が夕べの歌を聞いてわが身の不肖を感じてしまったに違いないと、皆は不思議に思ったという。このような逸話があるほど、氏康は文武両道を兼ね備えた武将だということが世に知られている。
あるときのこと、尾張の武家の頭目、織田備後守信秀(*信長の父)は、武勇に優れた大将で勢力を周辺諸国に広げていたが、熱田の北古渡に新しい城を築いた祝宴の席の最初に、当時の諸州の大名たちの品定めをすることになった。
そこで水野帯刀左衛門忠廣が北条家の活躍について述べ、近年、北条氏康には歌を詠む徳として上の逸話があると披露すると、信秀は耳を傾けてから、
「そのような話からすると氏康は武術に長じ、その上詩歌にも通じた今時珍しい武将である。だから氏康の存在は当節両方の上杉家にとっては頭痛の種だろう。
もっとも自分は風雅の道は不案内である。氏康はその道の奥まで周知しているからこそ達人といえよう。だから家来たちも風雅の道になじんでその道を究める者も出ているはずである。氏康は実に優れた武将であるから、彼一代は問題は無い。しかし、子や孫の代になるとその道ばかりを励んで肝心の武力の方が衰えてしまうのは目に見えている。今のような武器を枕にしなければならない時勢に、御所や仙洞御所の遊び事に励むのは武士の本分ではない」といって、自分の一族には歌曲の道を厳禁すると命じた。その言葉に、相当の無骨者だと罵る人もあり、いやもっともだと頷く人もいたという。
氏康一族の祖父、北条早雲庵宗端は卑しい身分から立ち上がり、武勇によって遂に伊豆の田方郡、韮山城主となった。明応の初めには大森式部少輔氏頼入道寄栖庵の息子、筑前守定頼入道不二庵が守っていた相模の足下郡湯坂峠の城を陥れて彼の一族を皆殺しにし、小田原に新しい城を築いた。そしてその城へ移ってからいっそうの勢力拡大を志したが果たすことが出来ないままに、永正6年(1509)8月15日に88歳で病死した。息子の右京太夫氏綱が継いだ。
氏綱も度量があり、父の意志を継いで遂に両上杉を圧倒して関八州、相模(*さがみ)・武蔵(*むさし)・安房(*あわ)・上総(*かずさ)・下総(*しもふさ)・常陸(*ひたち)・上野(*こうずけ)・下野(*しもつけ) を平定し、扇谷朝興との武蔵野での激戦を制して江戸城を征服し、遠山四郎左衛門を城代として威勢を示した。また、古河の御所晴氏の婿となり、近郊の勢力も草が風になびくように集まった。大永7年(1527)7月19日に氏綱は55歳で病死し、その子の新九郎氏康が相続して領地を治めた。
天文13年(1544)
7月大
9日 五畿七道が大洪水に見舞われ、陸地に船が浮かび、三河のすべての民家が流されたり浸水したりして多くの人や家畜がおぼれ死んだ。
8月小
21日 竹千代の高祖父、徳川出雲守長親が72歳で死去した。戒名:棹船院一閑道閲。
〇水野右衛門太夫忠政が死去した後、その子、下野守信元は尾張の愛智郡古渡の城主、織田備後守信秀と組んで駿河の今川と敵対した。
廣忠は以前から今川治部大輔義元の家臣だったため、やむなく妻と離婚して彼女を下野守信元へ送り返えすことにした。しかし、彼女は日ごろから体調が悪かったので、酒井雅楽助正親が気遣ってしばらく彼女を引き取って療養してもらうことになった。
当時、彼は酒井河内守家次の下で政務を司っていた。
9月大
〇廣忠夫人の病気が治って岡崎を出発するとき、まだ3歳の竹千代を岡崎に残すことになるので彼女は悲嘆にくれたという。廣忠の家来の阿部四郎兵衛定次、金田宗八郎宗祐、浅羽三太夫ら20人が、廣忠の命令で夫人に随行し、信元の居城刈谷から18町(*約2km)あたりまで来た。
夫人は「私の兄、信元は短気で怒りやすいので、私が送り返されたのを知れば憤慨してあなたたちを殺しに来るだろう。大勢が来れば逃げようがないだろうから、早く私をおいて岡崎に帰るように」と命じた。
しかし、岡崎の家来たちは仮に命を落としても刈谷まではお供したいと述べたという。夫人は重ねて、「私は廣忠とは別れてはいるが、竹千代を残しているので岡崎のことは忘れていない。あなたたちは命を落とさずに竹千代が成長した後に奉公してほしい。下野守は近い身内だからそのうち仲直りもすることもあるだろう。今あなたたちが無駄に殺されて岡崎の恨みが深くなったりすると将来の和平の妨げになる。もしそうなると私はもう竹千代に会えなくなる。だから私はあなたたちを助けて返したい。私のことはいいから早く帰りなさい」と述べた。
そこで家来たちは泣く泣くその場を離れたが、5,6町離れた林の中で休んで遥かに窺い見ると、信元の命令を受けた水野太郎作清久(後の、左近太夫)、高木善次郎清秀(後の主水正)が300人ほどの武装した兵を従えて夫人を迎え、送ってきた従者を討ち取ろうと追ってきた。それを見た彼らは岡崎に逃げ返った。夫人は「岡崎の侍たちは逃げ返った」と伝えて刈谷の城へ入った。
廣忠の夫人の妹は、三河の寶飯郡形原の松平紀伊守家廣の正室である。しかし、廣忠の妻が離婚したので、家廣も妻と離婚して信元と縁を切った。信元は怒って形原から送り届けた家来3人を襲って、奴隷に髪の毛をすべて抜かせて追い返した。このようなことから、岡崎の夫人の賢く思慮深いことが家来たちの危機を救った。これはすばらしいことである。
〇自分(*高敦)の調べたことによれば、廣忠と離婚した夫人は刈谷の摩下、尾張の知多郡阿古屋の郷主、久松佐渡守菅原俊勝に再婚し、二男四女をもうけた。長男は三郎太郎といい、後に松平因幡守康元となった。次男は源三郎勝俊という。三男は幼名長福という。彼は後に三郎四郎と改め、やがて松平隠岐守定勝となった。女子4人の内3人はそれぞれ三河の碧海郡桜井の松平與一郎忠政、渥美郡ニ連木の松平丹波守康長、寶飯郡竹谷の松平玄蕃頭家清の正室となった。末娘は早世した。
廣忠は渥美郡田原城主、戸田弾正憲光の娘を側室とした。
10月小
3日 徳川の家臣で、三河の加茂郡高橋生まれの米津太夫(初め新次郎)勝光が死去した。この人は小太夫政信の父である。
〇この冬、織田備後守信秀は、秋に(*徳川)長親の喪を伝え聞いて、水野信元が尾張にいるのを幸いとして、織田左馬助敏宗の率いる3千程の兵で三河の碧海郡安祥の城を攻めた。
長親の弟、安祥左馬助長家はこの城を堅く守り防戦した。弓の名手、平岩十兵衛が矢を放って寄せ手が多く死傷した。大将の敏宗も股に怪我をして、遂に尾張勢は囲いを解いて敗退した。織田信秀は激怒して自分で兵を挙げて三河へ出兵し、安祥城を落とし、そのまま碧海郡佐崎の城を攻めようとした。
当時佐崎の城主松平三左衛門忠倫は、和泉守信光の孫、弾正左衛門昌安の子であるが、裏切って信秀の家来となり、同郡筒鍼、額田郡渡理に砦を設けて岡崎を陥れようと企んだ。このため家来の間にはためらいが生まれて戦意が失せる有様であった。
一方の廣忠も今はただ岡崎を守って防戦の備えをしなければならない時期なのに、老臣の酒井将監忠尚と、酒井河内守家次、酒井雅楽助正親、石川安芸守清兼の間に確執が生まれた。
そこで将監は「清兼と家次は権力欲によって謀反の恐れがある。彼らを追放すれば家臣が一致して廣忠に尽す」と訴えたことがあった。しかし、「お前の方に謀反心があるのではないか」と咎められ、将監は恥をかいて退いた。廣忠はこの将監の行動は恨むべきことではないとしたので、彼はしばらく蟄居したが、後に赦され復帰した。清兼、家次、近親は主人のためと恨みを隠して将監と分け隔てなく公務を続けた。
〇『松平記』によれば、酒井左衛門忠次は廣忠の妹婿であるが、大原左近右衛門と今村伝次郎とともに岡崎城に行き、「石川清兼と酒井家次を討ちたい」と請願した、しかし、廣忠は許さず三人は退去した。ところが大原今村は城の門番と口論してこれを殺し、佐崎に帰ってから三左衛門忠倫の家来になったとある。
11月大
3日 家臣、渡邊甚五郎長綱が享年50歳で死去した。この人は清兵衛有綱の子である。
〇『本朝軍器考』によれば、大内太宰大貮義隆が明国へ貢物を届けるときに、船団の3番目の船が嵐で流され大隈の種子島へ流れ着いた。そこで天候の回復を待って出帆するときに、島の主の兵部丞時尭の家来で、南蛮より火砲の術を学んだ松下五郎三郎が乗船して明へ渡った。この船が帰ってくるときにまた逆風に流されて伊豆へ漂着した。彼の持っている火砲の技術が北条左京太夫氏康の家来に伝えられ、これから関東に鉄砲が拡がったという。
『南浦文集』には鎮西(*九州北部)でも去年にようやくこの技術が伝わったとある。また、『甲陽軍鑑』には、大永6年(1526)に武田家には伝わったとある。『北条五代記』によれば享禄元年(1527)に紀州根来(*ねごろ)より相模へ伝わったという。『九州記』には、同年3年(1530)豊後府内へ南蛮船が入港し大伴家へ鉄砲を寄贈した、また天文20年(1551)に同じ南蛮船が着いて石火矢を伝えたというが、これらの説はどれも信じられない。
外国船が豊府へ入港したことを詳しく記した『大友家の家記』には、上のような記述は無い。天正4年(1576)南蛮より宗麟の領内肥後へ大火矢を伝え(これは国崩(*大筒、大砲)という)、天正10年(1582)南蛮の商船が入港し石火矢2挺を宗麟に贈ったというのは確かなようである。そこ他いろいろ憶測はあるが信じるに足らない。以上からして三河に火砲が広がったのは天文の末か、弘治の初めのはずである。
天文14年(1545)
〇今春 廣忠は安祥を敵に獲られ、その上、織田方に内通する家来も出てくるので、三河を平定しようとわずか千騎程で矢矯川(*矢作川)を渡って陣を構えた。
尾張勢は廣忠の兵力が少ないので軽く見て、陣を整えないまま寶飯郡清田の畷から防戦した。その結果形勢不利になり、廣忠の部下の本多吉左衛門忠豊らが勝に乗じて襲い掛かって撃退させた。
大久保忠政(後に阿部四郎五郎と改名した)は敵を打ち倒し、父の新八郎忠俊がその首を取った。その他10人の首を取って清田の砦を攻めたとき、織田信秀が多数の援軍を出したので兵力が増強され、大挙攻めてきた。
こちらの兵は疲れていてこのままでは危ういので、本多吉左衛門が廣忠に、「直ぐに兵を岡崎に戻して作戦を建て直し、出直してこの城を攻めるべきである。しかし、敵に背中を向けて退くのは危険だから扇の馬印を自分に渡してくれ、そうすれば力の限り戦って死んでもよい」と進言した。
廣忠は許さなかった。しかし忠豊は繰り返し進言して、ついに馬印を受け取り、清田の畷に30騎で引き返して応戦し、全員戦死した。その間に廣忠など全軍は岡崎に戻った。忠豊の死を一同非常に悲しんだということである。
〇『福釜松平家伝』によれば、三郎次郎親俊はこの戦いで若いにもかかわらす軍功があった。廣忠は、「お前は父鎗三郎次郎に劣らず勇鋭である」と褒めたという。
〇『五井松平家伝』には、九郎忠次はこの戦いで手柄があったので、廣忠は額田郡伊田と羽根の郷を賜ったとある。
〇『昭代実録』には、「扇の馬印」は本多忠豊が戦死した後、嫡子の平八郎忠高の家に捺物として伝わっている。忠高は戦死した。その子平八郎忠勝が永禄2年(1559)に竹千代の望みで「扇の馬印」を返上し、竹千代もしばらくこれを使ったという。
〇碧海郡桜井の松平内膳清定は、父信定が昔徳川家を滅ぼそうとしたが果たせず、廣忠に降伏したが、その無念さが胸に残っていたらしい。彼は「信定は既に亡くなり、祖父も去年亡くなったので、この機会に廣忠は桜井家を滅ぼしに来るだろう。だからそれに先んじて兵を挙げよう」と、同郡の上野の城を本拠として防備を整えた。
酒井将監忠尚は清定に同調して、「自分は廣忠に叛いて上野城に加わり、廣忠が岡崎より上野に兵を進めたら、清定の兵は城からは出撃せず、敵が城下に来るのを待って撃とう」と企んだ。
味方は彼らの計略にかかって城を包囲した。そこを城兵が二箇所の木戸を開けて鑓をそろえて突撃してきたので、味方はたちまち打ち負かされ10人が死傷した。その上、川に溺れて死亡する者も多かった。植村出羽忠政(法諱 榮山)が、大久保新八郎忠俊の上に乗って踏み止まり防戦したおかげで、味方の多くの兵は逃げることができたという。
3月大
9日 徳川家の以前の家臣、岩松八彌は瞎目(*かため)だったので、人は「片目八彌」と呼んだ。
隣国の敵に内通して、岡崎城の廣忠の寝室に忍び込み「千子村正の脇差」で暗殺しようとしたが失敗し、ただ廣忠の股を傷つけただけで逃亡した。
廣忠は刀を抜いて追いかけた。城内は大騒ぎになって皆が「八彌が叛いて殿を刺して逃げた」と叫んだ。
ちょうど城内にい合わした植村新六(郎)家政(後の出羽守)はこの声を聞いて、「八彌は城門の橋に逃げてくる」と考えてそっと堀の中に入ろうとすると、碧海郡たら木の松平蔵人信孝が走ってきて、鑓を揮って堀の端に立ちはだかり、「八彌を逃がせ、さもないとお前を殺す」といった。新六郎は、「奴は謀反人だ、奴を逃がすと厄介が増えて後悔するだろうから、奴と自分を一緒に殺せ、自分は後悔しない」と答えた。
信孝が思案して躊躇している間に、新六郎は八彌の首を取ってしまったという。人々は新六郎の勇敢な義士だといった。廣忠もまた感激したという。(植村家政は出羽守忠安の子である)
〇『松平記』などによれば、岩楊(松)は新田の庶流で、八彌は眤近(*じっこん)であり軍功も度々あった。その後、気が狂ったのだろうか。罪もない下僕を傷つけたり、婦女子を殺したりしながら酒を飲んで逃げずにいた。今日は成道山大樹寺で先祖の供養のための仏事をしたが、そこでも泥酔し、そのまま城へ登って廣忠を襲ったので殺された。
彼には子供が一人いたが、これも殺された。孫もいて自殺しようとしたが、廣忠は憐れみ深い人で、「八彌は今までいろいろ活躍してくれたし、酒に酔ってやったことだ」として、幼い孫の命は助けた。しかし、武将にはせず、源家桃井の庶流、幸若小八郎という舞太夫の弟子にした。その結果、師匠の苗字と自分の苗字を混ぜて「幸岩與太夫」となった。
その子の幸岩惣太夫は徳川家の由緒や三河の諸氏の由緒を非常によく憶えているので、後年、秀忠(*2代将軍)の話し相手の係りの末席に加えられ、舞太夫を解かれて頭を丸めて眞斎と号したそうである。
5月大
5日 内藤三左衛門信成が誕生した。この人は後に豊前守となり、近江の坂田郡長浜の城主になった人である。彼は島田久右衛門景信の次男となっているが、実は廣忠の落胤だということである。
天文15年(1546)
3月小
10日 長澤の松平孫三郎信重は以前から水野下野守信元と非常に懇意であったが、信元が織田家に付いたので親交を絶ち、廣忠ヘの忠誠を誓った。廣忠は非常に喜んで領地を与えた。
『領地の保証書』
7月大
20日 関東両上杉、山内兵部少輔憲政と扇谷修理太夫朝定は8万の兵を率いて北条左京太夫氏康の領地、武蔵の入間郡川越の城を何度も包囲し攻めた。
城中には北条左衛門太夫(本氏福島)綱成と援軍の将、北条長綱入道玄庵らの精鋭3千ほどが立て篭もって懸命に防戦した。氏康は作戦を練って、伊豆と相模と武蔵の半分の勢力8千を率いて今日、昼頃に両上杉の砂窪の陣を破って、両将の内、朝定を始め3千の鋭兵と雑兵多数を討ち取った。
この戦いの勝利を、世間は天文13年(1544)4月20日の「川越夜軍」のこととして伝えているが、川越夜戦は天文6年(1537)7月15日、氏康の父、相模守氏綱が川越城を援護して扇谷朝定の大軍を撃破したことを指す。しかし、今回川越において北条父子が再度上杉一家の猛攻と戦って大勝したことも併せて後日有名になったものである。
〇三河の碧海郡絨木の松平蔵人信孝は廣忠の伯父にあたり、いろいろ手柄も上げたので厚遇されていた。
一方、同郡の岩津の松平太郎親長は、長親の庶兄で信孝の大伯父であるが、その人が亡くなり跡継ぎがいなかったので信孝は岩津も自分の領土とした。まもなく信孝の弟で同郡三木の松平十郎三郎康孝が亡くなったが、この人にも跡継ぎがなかったので、信孝はその領土も自分のものとした。廣忠は信孝がこれまでいろいろ尽くしてくれたので、それを許した。
さて、岡崎の老臣の内、安倍大蔵定吉の子、彌七郎は天文4年(1534)に清康を暗殺した(*守山崩れ)。
この事件で定吉には罪が無い証拠があったものの今でも岡崎で政務を続けていたので、信孝は「仮に大蔵定吉に罪はなくても、その子が犯罪人なのだから廣忠もこの人を退かせるべきだ」といつも非難していた。
この非難に大蔵定吉は非常に憤慨して、酒井家次、酒井正親、石川安芸守清兼、本多平八郎忠高(忠勝の父)、植村出羽守忠安らと協議し、「昔桜井の松平故内膳正信定は、領地を次第に広げて勢力を増やし結局は岡崎の敵となった(*清康暗殺の黒幕)。この事件はつい最近のことである。これまで信孝に功績があったからといって康孝の領地まで与えると、彼の領地は岡崎に匹敵するようになり、きっとその内謀反を起こすことになるだろう。今の内に信孝を放逐して後の備えにしたらどうか」と提案した。その考えに残りの4人が賛成したので、信孝はそのように処置されたという。
9月大
6日 廣忠は再び松平内膳清定の上野城を攻めるために岡崎を出陣したが、次のように命令した。「去年の春はわが軍は敵を甘く見て惨敗したので、敵は今も鼻高々だそうだ。これは味方にとっては勝つチャンスである。先鋒が城下に迫って勝ちどきを挙げると清定は直ぐに飛び出してくるだろう。このときに全軍で攻めかかると城兵に大打撃を与えて清定も獲えられるだろう」
そこで家来たちは彼の命令を守って、まず囮の兵を城下に進ませて勝ちどきを挙げると、果たして内膳衆は先に出て来て、「岡崎の弱兵なんぞ目ではない、直ぐに負かせる」と叫び、次々に兵を城から出させた。こちらの先鋒は敗退したので清定はどんどん追撃して来た。こちらの金田惣八郎宗祐と中根甚太郎はその時戦死した。
廣忠は敵がこちらの計略にかかっているのを見澄ましてから、奇兵を使って彼らを攻撃した。渡邊源五左衛門高網が真っ先に戦闘を始め、清定の軍隊は退却してことごとく城に逃げ帰った。この戦いで味方は10の首を取り、廣忠は岡崎に凱旋した。その後、清定と酒井将監の勢いが弱まり岡崎の軍門に降りてからは、廣忠は清定を桜井に戻し、上野城には将監を置いた。
〇この年の秋、久松佐渡守俊勝と隣国の敵の大野氏及び佐治氏との和平が成立した。俊勝の祖父、肥前守定益は尾張の知多郡、阿古屋の城にあり、彼も両者と対峙していた。
隣同士の戦いなので、相手が突然襲ってきたときには鳥兎山に登って鐘を鳴らし法螺貝を吹いて急を知らせると、定益の叔父水野右衛門太夫忠政は刈谷から、小川四郎右衛門は小川から馳せ参じて久松を救援し、一方、小川が急襲されたときは阿古屋から救援に走るというような状況だった。俊勝は祖父の代から3代にわたって大野・佐治と戦い続けてきたが、今回ついに両者が手を結び、俊勝の子、彌九郎定員を佐治の婿とした。定員は俊勝の先妻の子で、康元、勝俊、定勝らとは腹違いの兄である。
10月大
12日 岡崎の兵が設楽郡、野田の菅沼織部定村を攻撃したとき、杉浦彌一郎親貞は32歳で戦死した。
12月大
20日 足利源義藤が征夷大将軍になった。(義藤、後の義輝であるが、彼はこのとき京都を避けて近江の坂本の樹下某(*宮)という日吉(*神社)の宮司の家に身を寄せていた)
〇この年、長澤の松平上野介政忠の子、源七郎生まれる。後の上野守康忠である。彼の母は廣忠の妹である。後年政忠が戦死して酒井左衛門尉忠次に再婚して「吉田殿」と呼ばれた。
【閑話】
今年8月、北条氏康は小鷹狩(*秋の狩、大鷹狩りは冬の狩)に行くといって家来を連れて領地を視察し、小田原の城に帰った。その時の紀行文がある。
『武蔵野道之記』 平民康(*北条氏康)
天文15年(1546)の仲秋の頃、かねての思いのままに武蔵野へ出かけてみようと思い立った。皆の衆を引き連れ小鳥を狩して楽しもうというわけである。それぞれ狩装束を身につけ馬にうち跨って出立した。
まずは鎌倉に参り、あちらこちらの古跡を散策した。八幡山から四方を眺め、小磯や大磯を見渡せば鴛(*おしどり)やカモメが波に戯れている姿に:
おしどりの 立つ白波の磯辺より、あまのみるめを 袖に受けばや
大磯の 波打ち分けて行く船は 浮世を渡る たつき(*斧)なるらん
あれは庚子(*かのえね)の年のことだったか、願い事があってこの社に参ってから、もうかれこれ8年ほどにもなってしまったことだ と思いつつ若宮に参ったところで:
頼みこし 身はもののふの八幡山 祈る契りは 万ず世までに
さて、ここかしこの谷や山、由為(*比)ガ浜の大鳥居、古寺・古跡を観て周り、藤沢の北松井の荘の山田弾正正宗の宿で一夜を明かして更に行くと、是こそが(*万葉の昔から歌に詠まれる)あの こよろぎの磯だという:
きのう発ち 今日こよろぎの磯の波 急ぎてゆかん 夕暮れの道
今は八月の始め、深い朝霧の中に分け入っていくと そこに山があった。いわ山というこの山の後ろは 甲斐の山、秩父などという。やがて武蔵の国の勝沼(*現在の青梅)というところに着いた。
今は斉藤加賀守安元がこの地の領主になっている。彼を尋ねて旅の話を通じると 山海の珍味を数を尽くしてもてなしてくれた。ここで二日を過ごした。
これより武蔵野へと狩行くと、行けども行けども果てしのない萩ススキ、
女郎花(おみなえし)の露に宿る虫の声にあわれを催すばかりである。
武蔵野と いづくを指して分け入らん 行くも帰るも 果てしなければ
いにしえの草の謂れも懐かしいこと、これも紫の縁(藤壺)ゆえに
へだつなよ わが世の中の人なれば 知るも知らずも 草の人もと
日が変わり8月13日、朝霧益々深く、道もよく見えぬまま馬に任せて進むと
長井の荘に着いた。若紫の巻に、かかる朝霧を分け入ろう とあるのはこのようなことだろう。
大澤の荘などを過ぎてようやく隅田川に至った。
川面に目をやれば嘴と足の赤い純白の鳥の群れて魚を漁る姿。古きを偲んで:
都鳥 すみだ川原に船あれと だにその人は 名のみ在原
海を隔てて安房・上総が目の前に見渡せるここは葛西の荘、齢八十路かと見える浄興寺の長老が迎えに出られ、寺で一泊されてはとおっしゃるので河を渡って寺に泊まった。夜半に涼しい風が吹いた。松風入琴を想い:
松風の 吹く聲きけば 夜もすがら 調べ異なる 音こそかわらね
夜が明け急いで帰ろうと駒を速めて元の道に戻って こよろぎの磯を経て小田原に着いた。もう八月も半ばになってしまった。
この紀行文の中に登場する斉藤加賀守は次のような人である。
彼の父、加賀守は武蔵の大田左金吾入道道灌の家来で馬廻りの武士だった。
この人は非常に智謀才覚に恵まれていて実践の経験も豊富な戦いのプロだったので、道灌が亡くなった後、扇谷定正の側近に加わり、彼一代でなんと20回ほどの戦で手柄をあげたという。加賀守安元もやはり父の優れた資質を受け継いでいて、氏康と非常に懇意になっていたそうである。
武徳編年集成 巻1 終
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