家康誕生のころ
投稿日 : 2021.05.19
『武徳編年集成』は、家康(幼名竹千代)の誕生から始まりますが、当時の世間の様子を調べておきたいと思いました。
竹千代が生まれた時、父の松平廣忠は16歳、母の於大は14歳ごろでした。この時、彼が後の徳川家康になることなど、誰も予測できませんでした。つまり、これは単に三河(現在の愛知県岡崎市付近)の東海道新幹線の「のぞみ」がごく短時間で通過する狭い地域を支配していた松平一族に、男の子が生まれたということに過ぎません。
当時、廣忠を擁する一族は、尾張の織田信秀(~35歳)、甲斐の武田信玄(~22歳)、駿河の今川義元(~24歳)といった若き列強に領地を取り囲まれ、特に今川と織田の勢力争いに翻弄されていたといいます。
村岡幹生氏の『家康のルーツ・三河松平八代、松平氏「有徳人(うとくじん)の系譜と徳川「正史」のあいだ』によると、松平一族は、三河を流れる矢作川上流の松平郷あたりから出た一族で、京都から流れてきた加茂氏の治水技術を習得し、この川沿いを開発して勢力を拡大したとされています。彼らは支配する地域の地名を使って、「どこそこの松平」と名乗っていたとのことです。
竹千代の祖父、つまり廣忠の父である松平清康は、安祥の松平家の七代目当主ですが、以前は清孝という名前だったそうです。この頃、清孝は叔父の松平信定と抗争を繰り広げていました。この経緯は複雑で、最終的に信定は桜井の松平を名乗り、清孝は岡崎の松平家に養子として迎えられ、清康と改名したといいます。しかし、清康と信定の不和は続きました。
清康は次第に勢力を拡大し周辺の地を支配していきましたが、その途上で家来の阿部定吉の息子、彌七郎によって尾張の守山で暗殺されます。この原因は彌七郎が自分の父が清康に粛清されると勘違いしたことに起因しているそうですが、なぜ清康が尾張まで出向いていたのか、確かな証拠は見つかっていません。後の私訳にあるように、高敦はこの事件について、阿部定吉から聞いた話として、次のように述べています。
「その昔、桜井の松平、故内膳正信定は領地を次第に広げ、勢力を増したが、最終的には岡崎の敵となった。この事件はつい最近のことである。」
村岡氏によれば、信定はこの事件後すぐに岡崎城に入城したそうです。阿部定吉が廣忠を連れて逃げた理由は、息子の犯した罪を追及されるのを避けるためで、廣忠を担保として取ったといいます。ただし、逃げた先は高敦のいう信孝の話とは異なり、伊勢の篠島だったとされています。
篠島は知多半島と渥美半島の間にある小さな島ですが、実際には伊勢の上野へ向かう途中、いったんこの島に寄ったのかもしれません。
一方、信定が岡崎城に入った後、すぐにその城を信孝に譲ったという点も奇妙です。高敦によれば、信孝の言葉として、「上野へ逃げていた廣忠を、大久保一族と協力して岡崎に帰還させたのは自分だ」と記しています。つまり、信孝は廣忠を岡崎城に戻し、定吉も復帰したことになります。
村岡氏によれば、この過程で信孝は今川義元の支援を受けたとされます。これにより、松平一族は廣忠のもとで一応まとまり、今川の傘下に入って生き延び、岡崎に本拠を構えて周辺を支配できるようになったのでしょう。しかし、その勢力は小さく、駿河の属国のような立場だったと考えられます。
天文11年(1542年)8月、竹千代が生まれる3ヶ月前に次のような記録があります。
「駿河国主の今川義元が遠江国を征服して参州に出撃した。尾張国主の織田弾正忠信秀は2千余騎で小豆坂に出撃して抗戦し、今川方が敗北した。」(浅井日記)
また、同年8月には次のような記録も見つかります。
「10日 今川義元と織田信秀が三河の小豆坂で合戦した。今川義元方は4万余り、織田方は2千5百で戦ったが引き分けた。」(江源武鑑)
ここには松平の文字は見当たりませんが、小豆坂は岡崎に近い場所です。この戦いが起きたことは、隣国同士の戦争が岡崎のすぐ近くで繰り広げられていたことを示しています。しかし、高敦はこの戦いについては何も記していません。
一方、その頃の京の都の様子についても見てみました。少し後のことですが、『浅井日記』の天文14年(1545年)の条によれば、
『応仁の乱以降、戦乱により天皇家が衰退し、諸卿が困窮していた。近衛、鷹司、綾小路、庭田、五達、中原大外記などは近江に住んで佐々木の世話になり、観音寺城下の常楽寺にいた。その他の公家たちは、つてを頼って地方へ流れたり、殿上人や地下人は摂津や河内、近江辺りを流浪していた。(浅井日記)』
この状況は竹千代の生まれた頃にも似ていたのでしょう。しかし、高敦は天文12年(1543年)8月25日の条の、種子島に鉄砲が伝来した話に関連して、
『応仁の乱以来、天下は乱れて瓜のように割れ、豆のようにバラバラになっていたが、このところようやく一つにまとまる気配が感じられる』との感想を述べています。とはいえ、竹千代が生まれる少し前、天文11年3月には言継が次のように記しています。
『18日、昨日河内の太平寺(現在の大阪府柏原市)で戦いがあった。木澤左京亮が討ち死にしたという噂がある。あとで詳しいことが伝わり、遊佐、三好方が木澤左京亮など96人の首を取った。名前の分からない戦死者の報告はなかった。このところの支配者たちが一気に滅ぼされた。浅ましいことだ。不便(不憫)之至也。志賀の二上の城が昨夜焼けた。飯守の城は健在で木澤の父などは無事である。今日は河内の方々が焼けてしまった。(言継卿記)』
この戦いによって、これまで実権を握っていた木澤の勢力が三好方に滅ぼされ、三好長慶が頭角を現したとされています。
その10日後の条には、
『28日 今日、将軍(義晴)と近衛殿などが(近江の坂本から)上洛した。皆で見に行った(見物に行ったのか、迎えに行ったのか、筆者にはわかりません)。細川右京大夫(晴元)は一昨日(避難先から)上洛し、昨日坂本へ行き、今日は一足先に上洛した。佐々木小(大)原中務大輔、朽木民部少輔、進藤(山城守)、永原(越前守)ら34人が随行した。(言継卿記)』
この随行者はすべて近江の佐々木一族です。この一族と室町幕府との関係は、木下聡氏の『室町幕府外様衆の基礎的研究』に詳しく述べられています。
このように、この時期権力を握っていた木澤を避け、将軍義晴は管領の細川晴元も京都を避けて避難していましたが、大平寺の戦いで木澤が滅ぼされたことにより、都へ帰ってきたのでしょう。しかし、以前から続いていた細川と三好方との抗争は依然として続いていました。
余談ですが、大平寺の戦いのあった前日、言継は次のように記しています。
『16日、夕方4時ごろから女官たちとコンパをした。廣橋、自分、四辻、庭田、あかか、たと、かかな、などと夜通し飲んで、夜明けに帰宅した。(言継卿記)』
言継の直接の上司は長橋の局という天皇付きの女官のトップで、その下に数人の女官がついていたようです。彼女たちは言継の同僚のような存在だったのでしょう。
長橋の局は「お局さん」として仕事を言継にいろいろ申し付けるのですが、なかなかストレスのかかるポジションだったようで、頭痛や胃痛に悩まされ、言継は人参や胃薬などを調剤して渡していました。また、女官たちの中にもよく病気になる人がいて、彼女たちのために薬を調合し、手を取って診察したり、新年には彼女たちに墨を一本ずつプレゼントしたりと、彼は細やかに気を使っていたことが、この日記からわかります。
このように、一歩禁裏の塀の外に出れば、時には近隣で合戦が行われ、血が流れ、周囲が敵に放火されて「方々焼修了」などと書かれるような状況では、街の民は一体どうしていたのだろうと思わずにはいられません。その上、あちらこちらで野伏(野盗集団)が出没していたというような都の様子です。言継の記述を読むと、勢力争いに明け暮れていた武家社会と禁裏との距離感に、当時の都の雰囲気が感じられます。緊急事態宣言のもと、その筋では盛大に会食が開かれている風景と、少し重なるのは考え過ぎでしょうか?
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