巻10 永禄12年正月~11月
投稿日 : 2016.01.22
永禄12年(1569)
正月大
2日 南方(*阿波)の大勢の浪人たちが、和泉の界津(*堺)を出撃して河内へ乱入し、三好左京太夫義継の領地を放火し侵略した。彼らは若江郡出口中堀に駐屯した。
3日 南方からの反乱軍は、山城の久世郡美豆に進軍して陣を設けた。将軍義昭は去年から京都の本国寺を仮の館としていたが、衛兵も少なく防戦に耐えられなかった。
丹波の内藤備中守、若狭の山縣源内、宇野彌七郎、三河の加藤三之丞廣明、村越孫六郎らが武者修行で京都に滞在していたので、彼らが御所方に加わった。義昭は細川右馬頭藤賢と三淵大和守藤英に総門を固めさせ、野村越中守を軽率の隊長として門外の四隅を守らせた。
〇徳川家は松平を名乗っているが、先祖は徳川だった。家康はその名前に戻したいと去年初めて将軍義昭に申し出ていた。幕府はその申請を近衛前久を通じて天皇に伝え、昨年暮れ9日にその許可が下りて、長橋の局から奉書などが義昭に届いた。そこで今日3日、義昭から遠州の浜松へ通知され太刀一腰が贈られてた。
「御内書」
この証書はすぐに家康に渡され、家康は謹んで受け取った。
〇伝え聞くところによれば、応仁以来、朝廷も幕府もあってもないに等しく、たまに贈り物をする者がいると恩がましく詔を賜り、女御が奉書を将軍に遣わすことになっていた。これは困った世の中の流儀で、古来の意味の通りに捉えるわけにはいかないということである。
(*この改姓にもコネともに相当な出費が必要だったらしいことが『言継卿記』から伺えます。その経緯はこちらの拙文に記しました)
〇家康は遠州掛川の陣から駿河へ、植村與三郎と山岡半左衛門を送り、信玄に対して、「秋山伯耆晴近を乱入させ国人を謀って遠州を奪おうというのは、大井川を境にしようという前の約束と違う」と抗議した。それでも秋山は見附の砦に居座っていたので、家康は使節を送って「自分は尾張を支配しようとしている。遠州は武田に譲るので、その段取りを相談したいので晴近はすぐに原河原へ出てくるように、こちらからは酒井左衛門尉が行く」と告げた。秋山は了解して原河原に向かった。家康は安間村まで出て、酒井忠次、本多平八郎、榊原平太を行かせて秋山を捕らえ、遠州諸氏の人質を取り返した。それから秋山を森の郷まで連れてきて、40~50人の兵で囲んで二股まで護送した。秋山は倉見西郷より佐夜中山を経て、駿府へ逃げ帰った。酒井。本多、榊原は、見附に残っている秋山の従士を追い払ったので、家康は見附に駐屯し、3人は掛川へ出陣した。
4日 南方勢は洛外東福寺に達した。
美濃の斉藤家の浪人、赤座七郎右衛門、弟の助六郎、森彌五八郎、奥村平六左衛門、渡邊庄左衛門、坂井奥右衛門は、当時和田伊賀守惟政の家来となっていて、摂津の芥川郡高築(*高槻)に住んでいた。彼らは夜に本国寺に来て義昭の味方になりたいと申し出たが、彼らの本心がよく分からないので総門の内部には通されず、門外の四つ辻の衛兵に加えられた。信長衆の織田左近将監や同左馬允など将軍方の軍勢は、せいぜい2千だった。
5日 南方勢は大宮まで進軍し、北側から本国寺を猛攻した。その勢いに四つ辻を守っていた御所方の軍勢は耐えられず敗北した。山縣源内や宇野彌七郎は槍で対戦したが、さっそく戦死した。奥村平六左衛門が最初に首を獲った。義昭は感激して自分の剣の笄(*かんざし? 飾りか?)を与えた。赤座七郎右衛門も母衣武者(*ほろ 親衛隊)を討ち取り、敵を追い払った。野村越中守は味方の兵を総門の内側へ引き取らせ、計略によって寺の僧を門から出し「幕府は明日別の場所へ移す」と説得させた。この寺は三好家が崇拝してきた寺なので、伽藍を焼き尽くすのは忍びないということで、三好謙斎、北斎、笑岩などは包囲を解いて、七条の陣地に戻り、兵や馬を休ませた。
河内の若江郡若江の城主、三好左京太夫は、義継を救援するために今朝出撃し、狐川を渡って雄徳山に駐屯した。和田伊賀守惟政は、摂津の芥川郡芥川の城を出撃し、昨夜西ノ岡に着いた。しかし、本国寺の急を聞いて1騎で敵の中を乗り切って本国寺に駆け込んだ。義継は狐川を越えて向ノ明神に陣地を置いた。細川兵部大輔藤孝、池田筑後守勝政、同清貧斎、伊丹兵庫守雅興、荒木彌助村重が後詰めとして義継方に加わった。
6日 早朝、三好笑岩と岩成主税は阿波の勢力を率いて桂川を渡り、小笠原民部大輔などが魁となって戦ったが、命を落とした。しかし、結局彼らは三好義継の陣を破った。義継も池田勝政も優れた武将で、散々苦戦して多数の兵を失い嵯峨野へ退却した。伊丹兵庫守は当時18歳だったが、負け戦の中でまっすぐに都に入り、本国寺の後援として奮戦して80人ほどを失った。寺の中からは細川藤孝、三淵、野村、二階堂駿河守孝秀、飯河山城守信堅、槇島玄蕃允昭元が四ツ辻へ突き出て、ついに寄せ手の大軍を撃破し、吉成勘助や奈良左近を始めとした阿波勢の800あまりの命が取られ、彼らは逃げ去った。
7日 信長は本国寺へ阿波勢が攻めてきたことを岐阜で聞くと、僅か11騎で近江の高宮まで出馬した。他の兵は後から追いついたという。
8日 信玄は陳謝の書状を、家康の2人の使いに渡した。
「書状」
9日 信長が本国寺に到着した。近江、美濃、伊勢、尾張の軍勢が、たちどころに京都へ集まり5万人に達した。信長は今回の戦いで戦功のあった者に恩賞を与えた。また、泉南、堺の豪商の主人36人が三好家をサポートした罪として、全員を焼き殺すように命じた。阿波勢は全て四国へ逃げわたった。(堺は黄金2万の賠償金を信長に支払った)
17日 家康は再び見附(*磐田)から掛川城へ向かい、天王山の北側に陣地を設けた。数100挺の大砲を発射し、城兵も銃で応戦した。内藤三左衛門信成は敵陣深く攻め込んだが、鉄砲で股を撃たれた。それを見て敵が彼の首を獲ろうとして駆けて来るところを、弓のうまい彼の兄の彌次右衛門家長がたちまち敵3人を射殺した。その間に信成の家来の岡田甚左衛門が駆けつけ、信成を背負って退いた。その様子を家康ははるかに眺めて、成瀬藤八郎に命じて信成の労を労わせ、傷の様子を尋ねさせた。
18日 掛川の城兵は出撃して金丸山の附城を襲い、今川の武将、日根野備中守弘就、同彌次右衛門、同彌吉などが激しく攻め立てたので、附城の隊長の久野三郎左衛門は負けそうになった。その時、岡崎勢が救援に来て敵を突き崩したが、敵はまた引返してきて味方を追い返した。その時、小林平太夫重直は踏み止まって敵の首を獲った。さらに、林藤右衛門と加藤孫次郎も踏みこらえて槍で対戦したが、敵も疲労が激しく城へ引き取った。この時、梶原平三郎は作花の梅を兜の前に付けて戦う様子が目立った。家康は久野が敗戦したので怒った。(掛川の城攻めについては『昭代実録』や『武徳大成』によらず、家々の秘録を詳しく調べてそれをここで記した)
〇この日、北条相模守氏政は4万5千余を率いて氏眞を助けに三島の心経寺に陣を置き、油井、蒲原あたりまで進軍した。
信玄は山縣昌景に2千500人をつけて鞠子に城を構えた。また花澤、藤枝、伊久美山の敵の情勢を窺うために江尻と井上の砦に兵を増やした。旗本は久能に駐屯し、そこに人質を収容し、今福浄閑に騎兵40と雑兵350人を配備して守らせた。典厩信豊を旗頭として1万8千を與津河原に展開し、信豊は山上に陣を張って北条軍とは毎日足軽がせめぎ合った。
三島よりは北条氏規と大道寺孫九郎直政、妻良高良の津からは、鈴木、富永、大田、安藤、梶原備前景宗、間宮新左衛門康信らが300余りの船で三穂(*三保)崎へ漕い寄せると、武田方は船の戦いに不慣れなので、船を乗り捨てて陸に揚がってしまった。
20日 掛川の城からは小倉内臓助資久、藤田弾正など200余が袋井の川端に進軍してきた。高天神の小笠原勢は急いで応戦したが大敗北を喫した。家康は怒って援軍を送って敵を撃退した。家康は名倉の奥平信光に感謝状を贈った。
「感謝状」
〇この日、氏眞は久野八右衛門(三郎左衛門宗能の老臣)の許に密使を送り、「近々夜陰に兵を出して家康の本陣を襲撃するが、その時裏切ってくれれば久野一族に遠州全部を与える」と伝えたそうである。久野淡路宗益、同佐渡宗憲、同弾正宗、同采女宗當など一族はこれに同意し三郎左衛門宗能を呼んで密談した。宗能は久野の嫡男で去年は一族を連れて家康に服従したので家康には恩があり、その心を変えなかった。
21日 昨夜、戦いに敗れて家康の怒りを買った小笠原與八郎長忠は、それを気にして掛川の城を何度も攻めたが日が傾いたので兵を引いた。
この夜、氏眞はまた久野八右衛門のもとに河井與四郎を送り、「今夜城から兵を出すので、宗能を殺害し、必ず家康を裏切るように」と申し送った。八右衛門はやはり宗能は当主だからこのことを知らせるべきだと考え、與四郎を待たせて宗能に伝えた。宗能はそれを聞き置き、與四郎を城へ帰した。
22日 久野宗能は本間長季にこのことを家康に伝えさせた。家康は宗能に大いに感じて菅沼新八郎定盈、松平與一郎忠正、植村出羽守家政、三宅惣右衛門康貞を援軍として金丸山に送って府城の本丸を守らせ、宗能を二の丸に入れて榊原康政に護衛させ、久野弾正(宗能の甥または叔父)同淡路(宗能の弟)、同采女(弾正の弟)を討たせた。康政は自分でも手を下して奮戦した。中根善次郎、遠藤八右衛門、篠島才蔵、竹内太郎左衛門、竹尾平十郎など家来も活躍した。宗能はようやく淡路を討ったが采女はとり逃がした。(『本多家伝』によれば、豊後守康孝は家康の命令で久野の城の裏切り者を打ち取ったという)
〇今夜、掛川の城からは選抜された屈強の武将たちが大勢天王山へ攻めてきた。家康は久野宗能の連絡に応じて敵の攻めてくる路にあらかじめ伏兵を配した。一の伏兵は大久保七郎右衛門忠世、二の伏兵は水野惣兵衛忠重、三の伏せは大須賀五郎左衛門康高である。敵を一と二の伏せを通過させて三の伏せを過ぎようとするときに、大須賀の兵が飛び出して敵を討とうとしたが、城から強力な兵が出てくるので立ち止まって槍で応戦した。
高天神衆の坂部又十郎正家が活躍した。筧助太夫正重、鷲山、門奈、渡邊、伊達、吉原、伏木らも奮戦した。松井左近忠次は南大門の寄せ手だったが、このとき本陣へ軍議のために来ていたのでさっそく参戦した。大久保忠世と水野忠重は左右から敵の退路を絶って攻撃したが、敵の勢力は衰えなかった。
23日 明け方なお両軍は交戦した。家康は山家三方衆を先陣として、西坂町の端から北の方の八幡山を経て味方を援護した。長篠の城主、菅沼左衛門尉貞景が戦死した。同美濃守は敵の讃井善右衛門と槍で戦った。貞景の家来の河合筑後は突撃したので敵は劣勢となり、天王小路より城へ引き揚げた。内藤四郎左衛門正成、渡邊半蔵守綱、服部半蔵正成は率先して敵を追って、城へ攻め込もうとした。
この城は、南に二の丸と松雄曲輪があり、その外溝を追手口として中に二の門がある。東の外溝を二藤口と呼び、辰(*東南東)の方に戸田、窪田、北池の足入り(*天然の泥田)がある。北には太鼓門があり、三の丸の外溝に北の門がある。本丸の西に乾堀があり、中の丸があって、その外に西の門がある。総構え(*、外郭(がいかく))には食い違った虎の口がある。
家康軍は敵を追撃して北の門に攻め込んだ。渡邊半蔵は敵を1人突き棄てて、城に乗り込んだ。小阪新助、大久保治右衛門忠佐、同新十郎忠隣も続いて進んだが、新助と治右衛門は三間ほどの堀を越えて三の丸の食い違いに着いた。新十郎はこのときまだ幼くて乾堀を越えられず城兵の近松丹波は治右衛門に声をかけた。大久保治右衛門はかねてから新十郎を引き取るといたので、治右衛門が目を配ると新十郎がまだ来ていなかったので、近松を槍で突いて首を取った。
夜戦のために、皆は(*旗)指物(*個人を認識する鎧につける目印の旗)を使わなかった。しかし、小阪新助はこの戦いは朝まで続くと予想して灯篭(*とうろう)の指物をつけて戦った。果たせるかな、戦いが朝まで続いたので小阪の指物だけが目立って、総門を一番乗りしたのは内藤正成と渡邊守綱だったが、人々はそれは新助だったといった。
その時大久保忠隣が駆けてきたので、敵を突き殺した叔父の治右衛門は忠隣に、「お前がこの首を取れ」というと忠隣は怒って、「これは自分の功績ではない」といって更に前進し別の敵の首を取った。
松下源太郎清景と浅原八蔵も手柄を上げた。城方の日野根兄弟3人と味方の松井左近の家来、岡田竹右衛門元次、左右田、奥平、石川新兵衛、都築助太夫重次が槍で突き合っている間、火砲に当たった敵の遺体があっても双方からの銃弾が激しくて首を取ることは難しかった。そんな中でも、水野太郎作清久が日野根彌吉の首を獲った。大屋七十郎の首は、水野総兵衛忠重が、伊藤武兵衛の首は椋原治右衛門が取った。その外、内藤四郎左衛門、小阪新助、大久保喜六郎忠豊、筒井内蔵忠次と水野忠重の家来、栗村彌七、久松総太郎らも首を取った。
城兵は隙を見て退却し、太鼓門を閉ざして抗戦した。南大手口へは松平甚太郎、西町口には酒井左衛門尉、東ニ藤口へは石川伯耆守が押し寄せた。北畈歩口は閉じて兵は進めず、酒井は手西町馬場口を破り、城門松尾口に着いた。甚太郎は町口を破り二の門に着いた。ここは寒天寺川を濠に使って橋があったが、ちょうど川の水が増えていて水が膝の節まであった。しかし、底に石があったので寄せ手はこの石を伝って渡り、橋を越えて城門やその脇に着いた。この口は左右が竹やぶで垣をしっかりと結びつけているが、味方はそれを切り破って城の中へ攻め込んだ。城兵はこの門を棄てて、二の丸に退却した。追手は太鼓門まで進んだ。
城方は寒天寺川の水を濠に満たし、二の門の櫓から鉄砲を激しく撃ってくるので、寄せ手は橋を渡って門まで攻め込めなかった。そこで、地元民を問い詰めて、足軽を呼んで西町の下にあった堰の土嚢を切り崩すと、水は全て流れてしまった。そこで段嶺の城主の菅沼刑部貞吉、同信濃定勝ら兵士たちは直ぐに川を渡った。
寄せ手は松尾口から太鼓門との2箇所へ攻撃をしたが、城兵は死を覚悟で猛烈に抗戦したので、松尾口の味方は敗北した。城兵は太鼓門では扉をたたいて飛び出すふりをしたので、戸口に来ていた味方は驚いて散らばった。しかし、渡邊半蔵と瀧見平次は踏み止まったが敵は出てこなかった。今日、家康の家臣の加藤孫次郎と林藤右衛門が戦死した。(この時に小林権太夫が討ち死にしたというのは間違いである)
〇この日、徳川家3世の家臣、三河の紺碧郡浦邊に住む米津左馬助勝政が享年83歳にて死去した。
25日 家康はしばらく軍を休めようと、兵を収容する附城に衛兵を配置した。笠町には奥平美作守(150騎)と菅沼新九郎正貞(30騎兵、この人は貞景の子)を、曽我山には小笠原與八郎を、岡津村の山崎には久野三郎左衛門と本間五郎兵衛を、河田村には譜代を交代で守らせるように厳しく命じて選りすぐりの兵を配置し、自分はしばらく見附で休養した。また、見附の宿の東の山続きにある砦を崩して山本帯刀成氏に設計させ、地元民を呼んで鎌田原に新しい城を築いた。
当時、濱名肥前守頼廣、後藤佐渡、気賀の新田友作、容輪の容輪三郎兵衛などは家康方ではなかった。しかし、濵名の家臣は、「家康は英雄の聞こえがあり、最近は引間の城も手に入れた。早く降伏して新城の建設に協力すべきだ」と勧め、頼廣も了解して、後藤佐渡と福井修理を連れて見附に向かった。しかし、本陣の前で馬を降りなかったので家康は鉄砲で撃たせた、それが五島に命中し彼は死んだ。濱名頼廣は恐怖して父子は甲州へ逃げた。ところが武田も彼らを受け入れなかったので、彼らは近江の牛原に落ちて蟄居した。一方、頼廣の伯父の大屋安芸政頼と弟の金太夫頼次など一族は濱名の城にとどまり、家康に対抗した。家康は本多忠勝と戸田忠次に命じて濵名と都筑の城を調査させたが、彼らはどちらも堅固な城で直ぐは抜けないと報告した。
2月大
〇家康は使いを濱名と都筑の城へ送り、「降伏すればこれまで通りの禄を与える」と伝えた。その結果、両方の城兵は全て降伏した。そこで、家康は彼等を本多忠勝と戸田忠次の与力の家来に加えた。また、後藤覚兵衛には遠州本坂と小原新田を与え、これも忠次の部隊に加えた。本多と戸田は両方の城を受け取り兵を配した。2人は更に後藤佐渡の居城日比澤に赴いて城を受け取った。一方、気賀の新田友作は他国に逃亡した。
〇調査によれば、濱名の将兵は皆家康から領地をもらい、大屋吉太夫、同金太夫、大野助蔵、中根権兵衛、相生與太夫ら濱名の一族は全て本多忠勝の家来になった。又、安方、伊賀、石原孫次郎、大屋庄左衛門以下113人は戸田の与力となった。
金太夫頼次は名の知れた弓の名人だったので、降参した後皆がその腕を見たいと望んだ。そこで彼は濱名城の中から矢を、2から3町余り離れた津々崎大明神の的に当てたので、皆が驚嘆したという。
濱名與兵衛の子、三郎兵衛は後に本多美濃守忠政に仕えて、難波の役(*大坂の役)では河内の道明寺口で敵の首を取ったという。
○掛川城の近くの容輪村の砦に、今川方の容輪三郎兵衛が立て籠もっていた。家康は久野三郎左衛門と本多五郎兵衛長季を先鋒としてその砦を攻めた。三郎兵衛は3日間抗戦したのち自殺し城は陥落した。その子は12歳だったが駿河へ逃れ、成長してから石野藤助の子として関東へ赴いたという。
3月大
4日 家康は掛川の城を攻めた。大手の寄せ手は南町口を破った。東條の松平甚太郎と松井左近は寒天寺河原へ回ったが、塩買ヶ淵は降り続く春雨で普段渡れる場所も水が深くて進めなかった。絡め手の水野忠重らは西宿ノ町口を破ぶり、松尾池を隔てて矢や鉄砲で攻撃した。ある隊は東口より城に押し入り山麓の天王小路で交戦した。北の方は攻めなかった。
家康は見附より本多百助信俊を呼んで本多忠勝と酒井忠次の兵に交代させて都筑の城番とし、遠江の国で味方になった諸士の人質を収容させた。今川が一揆をおこさせて掛川の城を後援させようとしているという情報に、家康は見附から酒井忠次、石川数正、本多廣孝、植村出羽守家政、小栗仁右衛門忠吉に3千5百余りの兵を手配して一揆に備えた。
5日 城兵の朝比奈備中守と三浦監物は朝、天王小路口より出て交戦した。特に菅沼帯刀、笠原、伊東、新谷、渋谷などが相談して、今日は敵の歩兵を討たず武将だけを組討にしようと決めた。
松平主殿助伊忠の家来、石原十助は城門に矢を発した。一の矢が敵に当たりその敵が馬から落ちない間に二の矢を発して射殺した。
榊原康政の家来、安松彌之助は大勢の敵を矢で追い払った。幕下の家来、小林伝四郎吉勝は馬上の敵を三騎射落とした。菅沼定盈の家来、彦坂小作らは多くの敵を射殺した。
西宿では本多忠勝、大須賀、榊原らが城兵と大いに戦った。
本多彦次郎康重(26歳)、小笠原喜三郎貞慶(後の右近太夫、深志の長時の子でこの時は浪人中)、菅沼定盈の家来、同彌太郎(氏柄不詳)、今泉甚助、同孫三郎、同久左衛門、奥平貞能の家来名倉五郎作、本多康重の家来、本多左馬助、吉見孫八郎などが槍で敵と突き合った。
菅沼藤蔵定政は手柄を上げた。城方の朝比奈および三浦はよく城兵を指揮して応戦した。味方は昔、家康が幼少の頃、今川義元のために領土を取り上げられて非常に苦労をさせられながら家康が成人するのを待ってきたものだから、今川への恨みを心に刻んでこの城を抜いて、当時自分たちを虚仮にした今川の家来たちの首を取ってやろうと一歩も引き下がらなかった。そのため、城から出てきた宗徒たちも大方は命を落とした。
味方の松下嘉兵衛之綱は敵の菅沼帯刀を討ち取った。高橋伝七郎は敵の朝比奈小三郎を討ち取った。高力與左衛門清長は飯原平左衛門を討ち取った。天文頃、吉田の城の城代だった伊藤左近元實を中山是井之助(小笠原長時の家来)が討ち取った。山崎市兵衛を散木何某が討ち取った。新谷小助を本多三彌正重が槍で突撃すると、敵が多数引き返してきたものの三彌が追い払った。彼は一向一揆の時に徳川の敵に回って浪人となっていたが、密かに先鋒に加わって手柄を上げたわけである。
今川家で18人衆と呼ばれている伊藤治部、同掃部、朝比奈小隼人を始め、30人ほどの武将と80人ほどの歩卒が命を落とした。朝比奈備中守は引きながらも奮戦した。笠原出羽守は後殿を務め退却した。
榊原康政は何度も二の丸に攻め入り、家来の三島伝次郎は手柄を上げた。桜井の松平與一郎忠正は城に一番乗りして城の簀戸(*すのこ)を破り、旗馬標の立つ堀際にいた小浦喜平次正則は戦死した。
各隊が竹束に取り付いた頃、今川の浪人たちがこの城の後詰めとして掛塚の港に船で着いたという話が伝わったので、家康は軍勢に撤退を命じた。與一郎忠正が後殿と務めて全軍が引き揚げた。家康は使いを出して兵士たちが規律を守って命令に服したことに対して感謝を表した。
大須賀、榊原、鳥居は急遽掛塚へ向けて出撃した。敵はこれを聞いて急いで船に戻ろうとしたとき、監視していた渡邊半蔵は槍を持って舟を襲い、味方の7人で多数の敵の首を取った。
朝比奈と三浦は寄せ手の石原十助の放つ強弓に感心して、城からその矢を金の扇に載せて松平伊忠の陣へ送り、彦坂小作の矢を菅沼定盈の陣地へ贈った。
寄せ手の本間五郎兵衛長季、加藤市十郎正重、本多康重の家来、畔柳又一ら60余人が命を落とした。
この本間五郎兵衛は十右衛門のことである。最近名前を変えた。家康は彼の遺領を丸尾和泉の長男に与え本間八郎三郎清氏とした。長季の子供権三郎政季も後年家康に仕え、長久手の戦いで手柄を上げた。
高力與左衛門も手柄を上げ、彼の家来も敵の首10個程を取り、家康から一文字の刀を贈られた。榊原の組の安松彌之助は弓の達人で、そが家康に聞こえて今後は矢之助と改名するように命じられた。(後に矢之助の名をその子に譲り、自分は孫左衛門と名乗った。非常に強い武将だった)
〇家康は附城に十分な備えをしてから一旦引間へ帰ろうとした。ところが、去年引佐峠で蜂起した気賀の一揆の残党が、西光院、寶諸寺、桂昌院と土地の尾藤主膳、山村修理、斉藤、竹田、瀬戸、余古、加茂、又、刑部村の給人百姓と名乗る内山党、その他の寺社の人々や地下人たちが再び蜂起して、気賀の東、卯の毛の郷、松崎の郷、北は呉石郷という大河を要害として、濠を掘って川の水を入れ四方に柵を設けて堀川の城と呼び、そこに男女千500~600人が立て籠もった。
この一揆が急に起きたことに家康は驚いてその城を急襲したが、険しい土地で落とせないのでどうしようかと評議をした。すると渡邊図書は、「ここでの一戦はやもえない。しかし相手が襲ってくれば文句なく戦うべきだが、ここは自分に任せてくれ」といった。そして、家康ら17騎だけを先に進ませ、後から石川数正と共に図書など多数が通過した。一揆衆は残念がった。家康は海辺の古美村から地下人、中村源左衛門入道喜楽の船で海を渡って産見村へ行き、引間へ帰還した。
15日 大澤左衛門佐基胤(*たね)が立て籠もっている遠州敷地郡堀江城を、家康は井伊谷三人衆に命じて攻撃させた。そもそも大澤氏は関白藤原道長より4代目の中務大輔基頼の子、持明院左京太夫通基より10代目で、左衛門佐基久は遠州の生まれで丹波大澤の村を領地としていた。そのためこれを屋号として大澤と名乗っている。今の基胤は基久9世の孫である。もっとも、中安兵部定安は権田織部泰長などを家来として武勇はその界隈では知れ渡っていたという。
25日 井伊谷の近藤石見信用、その子平右衛門秀用(後の登之助)、鈴木三郎太夫重路、菅沼次郎右衛門忠久父子、野田の菅沼新八郎定盈が堀江の城を攻撃した。近藤秀用は生っ○(*?)で堀を越えて城に乗り込み、鈴木三郎太夫らは戦死した。城方は堅く守って落ちなかった。家康は三郎太夫の弟、鈴木権蔵を陣代として附城を築かせた。(この時、大河内善一郎政綱は手柄を上げた。後の善兵衛というのはこの人である)
27日 家康は引佐郡気賀の堀川の砦を攻めた。山の後方平松崎というところに本陣を置いた。(ここに御殿松という古木が今もある)この城は海辺にあって潮が満ちると船で出入りできるだけなので攻めることができないが、潮が引くと城門が一つだけなので攻めやすい。
家康の家臣の小林平太夫重直、その弟勝之助正次、平井甚三郎、大久保勘十郎、永見新右衛門為重などは、潮が引くのを待って城を攻め城門まで行ったが、小林重直、平井、永見ら16騎が直ぐに戦死した。しかし、彼らに続いて森川金右衛門氏俊を始めとして多数が干潟から攻撃を繰り返し、ついに城を陥落させた。
ここで平太夫重直は父重次に劣らないほどの勇士で、この正月23日、掛川の天王山の戦いで怪我をしたが、まだ十分治っていないところを今度も無理をして戦に出て騎馬で戦い25歳の若さで戦死したことを家康は非常に悲しんだ。彼には子供がいなかったので、弟の勝之助正次に家を継がせ、また彼の遺骸を火葬して遺骨を高野山へ送って収める様に、水野太郎作清久に命じた。
また、大久保勘十郎は深傷を負って陣へしばらく戻っていたが、諸将の戦功を見届けるかのように仔細を尋ねた上で遂に亡くなった。享年は23歳だった。家康など家臣は彼と惜別した。
家康は、城兵108人の首を山田半右衛門に命じて気賀にて獄門にさらし、残りの700人は赦して子孫は今も気賀に住んでいる。そうして石川伯耆守と弟の半三郎が強い武将だったので気賀と堀川を与えて住まわせ治めさせた。
〇一説によれば、大河内善一郎政綱(後の善兵衛)は、家康に命じられて吉良東條の浪人を選んで家康の家来にさせ(75騎)、政綱を彼らの頭として大久保忠世の隊に加えたという。しかし、自分が考えるに、諸録の記述ははっきりしていない。去年の春に堀川城にて小林権太夫が討ち死し、又掛川城攻めにて同勝之助は討ち死し、今度の堀川城攻めで同平太夫が戦死というのは間違いである。小林勝之助重直は権太夫と改名し、更に平太夫と名乗っていた。彼は非常に強い武将で去年の正月の最初の堀川城攻めや、掛川天王山の戦い、更に今回の堀川城攻めと3度戦に参加して手柄を上げながら戦死したのである。このことは、今元文(*?)の小林の本家平左衛門正員に高敦が直接聴いたことである。
4月小
6日 幕府義昭は新しい御所へ移転した。これは信長が新しく建てたものである。
〇奥平美作守貞能は、家康に「今川と和融したらどうか」と勧めると、家康は「氏眞は、よこしまな輩を使って良い家臣を棄て自分に何度も戦を仕掛けてくるので、やもうえず戦ってきた。とにかく信玄に遠州もきっと征服される。早く遠江を自分に渡せば、氏眞と和融して北条家と相談し、駿府の城を信玄から取り戻して氏眞に与えて住まわせ駿州を治めさせたいと思う」といったそうである。奥平は家康が自分の意見を聞いてくれたことを喜んで、久野宗能と浅原主殿助と相談して今川との講和を準備しようと計画した。
8日 浅原主殿助が掛川の城へ出かけて講和の話を持ちかけると、小倉は非常に喜んだ。その後朝比奈備中守泰能は氏眞に「この城を堅く守ってはいるが、今やこの国はすっかり徳川の手に落ちているので後援を頼むこともできない。その内食料が尽きて飢えてしまう。明日にも家来を城から出して命がけで敵の本陣を突き崩すつもりだ。もし負けてしまうと城へ戻って死ぬつもりだ。その間に、あなたはなんとかして敵陣の一方を破って相模へ逃げてほしい」と述べた。しかし、岡部次郎兵衛は「そんなことをすれば、備中守は間違いなく戦死する。吾らの主人にとって重要なことは今だけの事ではない。ここは寄せ手と和平して北条家を頼り運が開けるのを待つのが良い」と勧めた。そこにちょうど浅原も来て和融を説いた。しかし、氏眞は疑ってなかなかうんといわなかった。
小倉は何度も氏眞に勧めたので、ようやく氏眞は和融に応じ、小倉を城から出したので、氏眞と家康の起請文の受け渡しが終わった。ただ、家康は城にはまだ兵糧が足っていて守りも堅いので油断できないと、金丸山に三家三方衆、河田村に酒井忠次、小笠原山に小笠原長忠、久野に久野宗能を留めて守り、掛川の前線から兵を収めた。
12日 一方、家康は以前堀江城へ使いを行かせ、「大澤基胤は今川の昔からの家臣ではないのに氏眞のために戦っているのには感心する。遠州は全て自分が支配して掛川の城とも和平が整ったので、早く自分に降伏すれば領地は間違いなく今までどおりとして見直すことは無い」と伝えた。大澤や家来一同は直ぐに同意した。そのため家康は念書をあたえた。
「念書」
〇考えてみると、中安兵部宗安と権田織部泰長は共に大澤の家来で、特に権田織部泰範(始めは初太郎)は今川義元に仕え500石を領していた。しかし、義元が戦死してからは浪人だった。泰範の子、宮内泰行(始めは小太郎)は大澤家の家来で、永禄10年9月に死去した。その子が今の綾部泰長である。その後、彼は中安と共に家康の家臣となり、関が原の戦いで戦死した。その子の兵部は早世し家が絶えたが、彼の母が存命中は禄をもらっていたそうである。
〇去年の冬、天野宮内右衛門景貫は(*密かに)信玄方に付いて秋山伯耆を味方にしようとしたが逃げられたので、家康を叛いたことが発覚せず、戦時によくあるように一旦家康の味方に戻った。そして彼は乾を領地とする許可を家康から得た。
「保証書」
〇奥平信光の遠州津貞郷での戦功に対して、家康は感謝状を贈った。
「感謝状」
20日 信玄は甲州の新衆2千人余りと鑰人足2千人と信州佐久と諏訪の2郡の鑰人足3千人を使って、馬場美濃氏房(*信春)の城郭設計法に基づいて駿州江尻清水に城を築かせた。築城後、上江尻には信玄の弟、武田左衛門太夫信光、清水には信州の丸子何某に守らせた。また、沖津の横山に砦を構えて穴山梅雪斎を配した。
28日 信玄は兵を率いて大地山を越えて甲州へ帰った。一方、北条家も、駿河の蒲原、三枚橋大宮の神田屋敷、興国寺、善徳寺、深澤、新庄、伊豆の足柄山、中鷹巣、泉頭、戸倉、湯澤の城に1万8千の兵を配分して守らせ、氏政、氏直は小田原へ軍を戻したという。
5月大
6日 朝、今川氏眞は掛川の城を家康に明け渡し、遠州懸塚で船旅の用意をして相模の小田原へ向かった。それより先、彼は小倉内蔵助資久を小田原に派遣してこのことを舅の北条氏康に連絡していたので、氏康は北条助五郎氏規(従美濃守で任じていた屈強の武将である)を遠州へ派遣して氏眞を迎えさせた。家康もまた氏眞を送るために形原の松平紀伊守家忠を派遣し、氏規と家忠が海路を護衛した。食料も家康が贈った。氏眞は無事伊豆の戸倉に着岸した。
家康は掛川の城を酒井左衛門尉、石川伯耆守、本多作左衛門らに守らせ、本陣を見附に移動させて各部隊は中泉に陣を張った。
家康は家来を集めて各人の功績を称え、杯を贈って酒宴を催した。義元以来の鬱憤が晴れて一同大喜びで盛り上がったが、家康は氏眞の沉淪(*ちんりん:悪い習慣)を憐れんだ。
7日 家康は引間の城へ移り、城の名前を浜松と呼ぶことを命じた。近臣以外に休暇を与えて各人は国許へ帰って休息した。
20日 家康は軍を率いて掛川の城へ赴き、この城を石川日向守家成に与えた。家康は加藤信五左衛門、同新七郎、同三七郎、成瀬惣八郎、渡邊甚平次、石川七郎、同太郎五郎、大田彌太夫、伊奈市左衛門、細木彌之助、山崎五助、三浦利兵衛、浅井藤右衛門、瀧見助右衛門、周防嘉右衛門、久目武太夫を家成の組に入れた。(後に彼らは家成の家臣となった)
家康は三河の武将をニ分割して、それぞれ酒井左衛門尉と石川日向守の管轄とした。
西三河の松平源次郎眞乗、松平宮内忠直、内藤次右衛門家長、平岩七之助親吉、鈴木喜三郎重時、鈴木越中守重愛は石川の組に属した。
東三河の松平右京亮親盛、松平内膳家清、松平源七郎康忠、松平玄蕃清宗、松平又七郎家信、松平彌九郎景忠、設楽甚三郎貞美通、菅沼新八郎定盈、西郷新太郎家員、松平丹波守康長、奥平美作守貞能、牧野新八郎康成、松平八郎三郎康定は酒井の組に属した。
今回家成が掛川の城主となったので、旗頭を石川伯耆守数正に譲り、数正が一隊を管轄した。その外、一手役は大久保、大須賀、松井左近忠次で、旗本の一隊役は本多豊後守廣孝、同平八郎忠勝、鳥居彦右衛門元忠、榊原小平太康政であった。
〇この月、家康は遠州を掌握したので、信玄と大井川を境として川の西側は全て家康に属すということで、下旬に600程の兵を率いて遠州内を見回った。ところが甲陽の山縣三郎兵衛昌景が率いる3千の兵と金谷で行き会った。
昌景はかねがね信玄の密命によって家康を襲うつもりをしていた。今回、家康の軍勢が少ないのを幸いとして家康を討とうと喧嘩をけしかけるように偽って不意打ちに出た。
家康の兵には戦の備えは出来ていなかったが、戦いの時代なのでいつも軍隊を引き締めていたので、5、6町引き下がって狭い道に構えて609人ほどは円状になって槍を構えて応戦し、直ぐに敵の7,8騎を討ち取った。昌景勢はすっかり劣勢となって撤退した。家康はこれは間違いなく信玄の仕業だとして、これから武田は長らく徳川の讐敵となった。
〇『御年譜附尾』、『中興源記』では、どちらも山縣が家康の失礼に憤慨してこの事件が起きたと書かれているが間違いである。ここでは『甲陽軍鑑』の説に従った。
〇ある話では、甲州方の評判として、徳川家はすこしで大きな得をした、山縣は何も得ることができなかったという。『前漢書』に、「利人之土地貨寶者謂之貧兵、貧者破此非人事乃天道也」とある。(*人の土地・貨宝を利する者を貪兵(たんぺい)と謂う。貪なる者は破れる。これは人の決めたことではなく、天の道理である)
当時、数々の群雄が共存していたが、その中でもっとも貪兵といえるのは晴信である。隣国と講和して数ヶ月という時に、家康の兵が少ない時を狙って山縣に命じて討ち取りに来た。このことが諸州に流れたので信玄は信望を失ったという。
〇武田方が掛川城を窺っているという話に、家康は城主石川日向守の婿である松平玄蕃清宗を援兵として行かせた。また、松平紀伊守家忠を馬伏塚に出撃させて敵の襲来を防ぐように命じた。あわせて、小倉内蔵助を北条へ行かせ信玄と縁を切ったことを伝えた。
信玄は駿河の庵原越を経て甲州に兵を戻したので、家康はすぐに駿河へ出撃し、府中の山縣三郎兵衛を攻撃した。この城は既に焼け落ちていて後ろに柵を設ける最中だったので、攻撃に耐えられず直ぐに落城した。
山縣が金谷で家康を襲った事件が諸国に広がって信玄の評判が悪くなるのを心配して、信玄は一旦山縣を蟄居させた。しかし、馬場と小山田が嘆願するので信玄は山縣を赦した。上杉謙信はこれを評して、今現在、戦略や戦術にかけては自分と信玄が一番秀でている。しかし、密かに山縣に徳川を討たさせようとしたのは諸国の顰蹙を買うだけでなく、徳川には願ってもない利益をもたらせるといったという。
〇今川氏眞は山縣が逃亡したので、小倉資久と森川日向に駿府城の城壁を築かせ、岡部次郎右衛門正綱と同治部右衛門に本丸を守らせ、阿部大蔵定吉と久野弾正宗政に二の丸を守らせて館などを設計させた。
26日 三河の碧海郡赤渋村で、廣忠以来の家臣、渡邊八右衛門義綱が享年73歳死去した。彼は初めは八郎五郎といって強弓で名が知れていたという。
6月大
2日 武田信玄は1万8千の兵を率いて甲州を出撃し、富士山中の金王通り大宮に出て、大宮の城や、北条陸奥守氏昭の神田屋敷の砦、蒲原、善徳寺、三枚橋、興国寺などの城を抑止させる兵を残して、1万2千の兵で伊豆の韮崎に乱入し、放火して城兵と交戦した。
17日 信玄勢は三島の神社を襲って町を放火した。信玄は川鳴島に駐屯しようとした。陣場奉行の原隼人胤(*たね)廣は川の水の様子に気付いて、「この場所は水害の危険が計り知れない。また、北条の3万7千の大軍と対峙するには場所が悪いので、早く別の場所に移動すべきだ」と進言した。ところが信玄は進言は断らない人なのに、今回は彼の忠告を無視し、しかも流れに近い場所に陣を敷いた。
19日 夕方になって暴風雨が激しくなり、夜になると川鳴島は湿地のために水で陣地が浸かってかがり火も消えてしまい真っ黒になってしまった。深夜になって蒲原、興国寺、三枚橋の北条の城からは忍びが信玄の旗本へ送り込まれ、馬の伴綱を切った上300人ほどの騎兵が松明を点して3方から信玄の陣を焼きながら攻め込んだ。水はすでに腰まで来ていたので武田軍の統率は乱れて興国寺の高台に逃げた。逆巻く水の中を逃げたので遅れたものは皆水死した。兵器も食料も全て流されて一時も留まることができず、信玄は大急ぎで大宮へ戻り元来た道筋を甲州へ退却した。
この時北条家は、信玄の八幡菩薩の旗を拾って大いに信玄を笑いものにした。諸国の武将たちには、「信玄が洪水で武器を流され夜討ちに会って逃げても別に誹謗されるようなことではない。しかし、もともと川鳴という水害の危険がある場所に駐屯することは大失態だ」と嘲笑された。
北条は蒲原の城に善徳寺曲輪という大きな郭を新造して3千の兵を配した。また、その残りの兵と大宮、神田屋敷、善徳寺、興国寺、三枚橋、戸倉、韮山、新庄、山中、深澤、鷹巣、獅子濱など10箇所の城や砦にいる援兵も加えるとあわせて3万ほどを配置して備えた。
〇この日、家康は兵を遠州周智郡に出撃させて天方山城守通綱の天方の城を攻撃した。榊原小平太康政を先鋒として城門を破り二の丸へ攻め入った。渡邊半十郎政綱、天野三郎兵衛康景、大久保新十郎忠隣が手柄を上げた。(この時康景は負傷した)山城守は力が尽き、城を明け渡した。更に家康は同郡飯田城を攻め城を落として城主、山内大和守など全てを切り殺した。
25日 家康は三河の成道山へ印章(*不入権の許可書)を与えた。
「印章」
〇水野惣兵衛忠重は掛川の城攻めの際に西宿天王山において4度手柄を上げ、更に吉備の城を攻めて隊長を斬ったので、家康から吉備の城と領地を贈られたという話がある。
〇『近藤家伝』によれば、遠州をすべて家康が支配した後、甲州方の抑止として井伊谷の三人衆という近藤石見、鈴木三郎太夫、菅沼次郎右衛門を、三河の八名郡郡山町吉田に送ったという。
〇ある話として、駿河の花澤の城将の小原肥前が滅びた時、実子の甚兵衛は越後へ落ち延び蒲原郡保内に住んで上杉謙信に仕えた。その子の四郎右衛門も同じところに住んで景勝に仕えたという。
〇調べてみると、駿河の三枚橋は沼津に近く、沼津の城は三枚橋の城とも呼ばれた。また、興国寺は長久保に近いの興国寺の城も長久保の城と呼ばれていた。
7月小
29日 家康は遠州周智郡乾の村主、天野景貫が密かに信玄に通じていたけれども、当時味方にいて功績があったので没収した土地を彼に与えた。
「念書」
8月小
28日 家康は掛川の城にて久野宗能の働きに対して、一族から没収した土地を与えた。
「印章」
9月大
16日 家康は松平左近太夫眞乗に掛川の援兵とする旨の書簡を贈った。(眞乗は大給の松平和泉守近乗の子である)
「書簡」
〇竹谷の松平玄蕃頭清宗は、豊川の加番を眞乗に代わって新坂の辺りの鹽井原の砦を守り、手柄を上げた。そのため家康は彼に遠州の二張、菅谷、亀中の3つの村を彼の領地に加えた。
10月大
8日 武田信玄は先月下旬、浜をたどって相模の小田原の城下を攻めて猛威を振るい、一昨日の6日、軍を返して今日三増峠まで引き下がった。北条勢は無謀な追撃の末大敗を喫して多数の死傷者を出してしまった。信玄が小田原へ攻め込んだために、駿河の色々な城に来ていた北条方の援兵は大方本国へ帰った。
11月大
〇晴信入道信玄は駿河の各城を守っていた北条方の大半が帰国した隙を狙って、甲陽から兵を駿河、伊豆、相模の国境へ向かわせた。北条常陸守氏忠、同左衛門太夫氏勝、芳賀伯耆守正綱、松田新次郎などの武将は各自の守る城や砦を離れて小田原へ避難した。信玄は陥落した9箇所の城や砦のうち深澤の城には駒井右京昌直を配し、新荘、湯澤、足柄山中の砦は破棄した。
5日 信玄は駿河城を攻めるために蒲原の城に詰め寄り、使者を送って城を開け渡すように説得した。城将の北条新三郎氏時は豪傑で応じなかった。信玄はわざとこの城は攻めかねるように振舞って夜中に兵を引いて駿府へ向かうふりをした。
6日 信玄軍の魁は由比、倉澤へ進んだ。小山田備中昌重の一隊は信玄の旗本から少し前進して濱須賀へ進んだ。北条新三郎氏時と狩野新八郎などは蒲原の城を棄てて突撃し、武田の先軍と旗本の間に割り込んで奮戦した。その時蒲原城内に野心を持った(*裏切り者)がいて、道場山から四郎勝頼の兵を引き込み、勝頼の部下が善徳寺曲輪へ攻め込んだ。一番乗りしたのは落合市之丞と初鹿野伝右衛門昌備であった。本丸へは小塩六右衛門、大澤五右衛門、常盤萬右衛門、大石四方之助、佐藤郷左衛門などと、駿河の先方の岡部忠兵衛の部下が乗り込んだ。その時武田方の小幡弾正昌尹(*ただ)(尾張次男)などが戦死した。やがて城は陥落し、城主の北条新三郎とその弟で箱根の僧少将、狩野新八郎、清水、笠原、多目、荒川などの武将200人と雑兵をあわせて711人が全て戦死した。
更に信玄は薩陲山へ進軍すると山上に敵が見えた。城意菴(*-城和泉守景茂)がその正体を見分けると、武将のいない一揆だった。そこで60騎と馬場氏房の兵を出して雑兵78人を討ち捕らえたそうである。
7日 信玄は駿府の城を包囲した。城の構えがまだ未整備で警護も甘く大軍を防ぐことはできなかったが、岡部次郎右衛門正綱、弟の治部右衛門、久野弾正宗政、小原長七郎、三浦兵部、安部大蔵定吉や今川の近臣、小倉、森川、富永、澤木、長井、酒井極之助などが400人の雑兵とともに防戦した。
正綱は僅かに100貫ほどの微禄にもかかわらず、今川の家来を集めてこのように奮戦する様子に信玄は感心し、鉄山和尚を送って、「10倍の領地を与えるので味方に付かないか」と説得した。岡部もこの不十分な城では守りきれないし、北条方の三増峠での敗戦によって駿河の数箇所の城が全て落ちている上、北条家の援護も期待できないので、ついに信玄に降伏し城を明け渡した。信玄は彼に3000貫を与えて50騎の隊長にした。
安倍大蔵定吉は徳川の家来だったが、その子の彌七郎は清康を暗殺(*誤殺)した後も廣忠の家臣となっていた。しかし、自分の子が徳川に背いていたことを大蔵は知らなかった。しかし、徳川の家臣は定吉を追放することを求めなかったので、彼は義元の世話になっていた。氏眞の代になって彼はよく仕えたのでこの城にいた。しかし、信玄が味方になれという誘いには乗らず、阿倍の実家に引き篭っていたので信玄が怒り、田代河内の地元民を集めて大蔵の家を夜討ちした。定吉は妻子や家来とともに山道をたどって遠州の引間に逃れ再び徳川についた。家康は感心して遠州に領地を与え、大蔵は2、30騎の援兵を家康につけてもらって田代河内を襲撃し、自分に背いた郷人も全て討ち取って憤りを晴らした。
信玄は駿州安倍郷の津々野藁科口の永見、土岐川根の山王が嶺、遠目、花澤、遠州金谷の壱諏訪原の5箇所に砦を築いた。家康は長井善左衛門安盛以下79騎を大蔵につけて、それらの砦を攻撃させた。大蔵は攻撃で城を陥落させ、あるときは夜討ちして乗っ取った。中でも諏訪原では故郷の安倍から金鉱堀を呼んで外堀から二の丸までトンネルを掘って夜中に城に侵入し、小屋に放火してついに城を落とした上、敗残兵を追撃した。定吉の子は安倍彌一郎信勝といって後に摂津守になった。
11日 遠州引佐郡都田の菅沼次郎右衛門元景入道源庵が死去した。これは次郎右衛門忠久の父である。
13日 信玄は兵を遠州蓁原(*はいばら)郡小山の城に篭らせた。家康は出撃してこの城を攻めた。家康は松平左近太夫眞乗が手柄を上げたので、小山の吉永、西鳥、幸玉、殿窪、星窪、柏原、山川、船市などの村を領地として加えた。(この冬、信玄は駿河で越年した)
〇この年、今川の家臣、小浦喜右衛門正高の子、山本五左衛門正成は家康に呼ばれて近づきになったが、12歳だったという。
〇信長の近臣、前田又左衛門利家は1万石を領土とした。これはかねがね戦で貢献してきたためである。
〇今年から肥前長崎に初めて外国船が入港して貿易をするようになった。この地は荒地だったが、三方が高い山で、海が深く船をつけるのに便利だからである。当時、ここは大村民部少輔忠張入道理専の領地で、村の長の長崎甚左衛門は理専の婿である。昔から筑前の博多や豊後の府内などあちらこちらに外国船が来ていたが、これからは大抵は長崎に入港した。
武徳編年集成 巻10 終
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