28  ψとは?

投稿日 : 2021.09.05


シュレーディンガーは水素原子の電子の運動を表す自分の考案した方程式を解いて、実際に観測される発光スペクトル線の間隔を理論的に得られた電子のエネルギーから再現することに成功しました。この計算は波動関数が一般にもっている数学的性質を利用して行われたのですが、弦や管の振動などが得られる波動方程式の解とは違って、確かに電子の運動をかかわっているのは明らかなのですが、ψの物理的意味についてははっきりしていませんでした。

現在標準的に受け入れられているψの解釈は、ボルン(Max Born, 1882-1970)によって提案されたもので、ψは確率振幅と呼ばれ、ψψが電子のその空間で観測される確率密度を表すというものです。例えば一個の水素原子が空間に浮いているとして、その考え方を絵に描いてみました。

中心の+電荷に引かれて電子はそのあたりにとどまり、シュレーディンガーが計算して得られたどれかのエネルギーを保って運動しています。しかし、nの違いでエネルギーが違いますし、波動関数の方もそれに応じて違いますが、調べて見なければどのエネルギーを持って運動しているかは不明です、というより、可能性としてはどのnのエネルギーの状態も持っているといえます。

標準的な量子力学の解釈としては、その内のどれかの波動関数をΨとすると、そのエネルギーを持った電子がある体積Vの空間の中のdxdydz、これはdτと書かれますが、という微小な体積の中で見つかる確率密度がψψだと考えます。そしてそれぞれのエネルギーに対応したこの確率密度をVの中すべての位置で足し合わせるとある値になり、そのような個別のエネルギーを持つ電子が見つかる確率をすべて足し合わせると1になる、つまり、電子はVの中のどこかには必ずいると考えるわけです。a696bfc477e5d5fff60ca8b28e795b2fd406b3b0.jpg

問題はVの範囲をどのように決めるかです。空間に境界はありませんから宇宙の果てまでとしても悪くはありませんが、その辺は人間が勝手に決めて、測定結果が必要最小限の範囲で再現されれば良しとしようという約束です。シュレーディンガー方程式に限らず、微分方程式は初期条件とか、境界条件とか呼ばれる条件を最初に決めなければ解けませんが、物理学ではその点は、適当に条件を決めて結果オーライ、とおおらかというか、実利的といえます。絵で緑のボヤ―っとした部分が原子の芯のあたりで濃いのは、その辺で電子が見つかる確率が多いという意味で、何か雲のような実態があることを表現したものではありません。Ψにどのような条件が前提としてあるのかについては、28-aで補足しておきます。ご興味があれば参照してください。

ボルンはこの解釈などを含めてこの分野に貢献した業績によって1954年のノーベル物理学賞を授与されました。彼は20世紀の前半の理論物理学に大きく貢献したハイゼンベルグ(Werner Karl Heisenberg, 1901-1976)やヨルダン(Ernst Pascual Jordan、1902-1980)、パウリなど多くの若い学者たちを、ドイツのゲッティンゲンで指導してきた人です。その時の受賞の講義録が公表されていますが、そこで彼がどのようにこの解釈をすることになったかについての、すこし曲がりくねった経緯が述べられています。

シュレーディンガーの論文が出たころは、彼はΨの確率解釈には難色を示していました。彼は、水素原子の発光スペクトルについてのボーアの考えと、リッツの経験則から弟子のハイゼンベルグが考案し、ジョルダンらとまとめた今日行列力学と呼ばれる理論の方が、確率を持ち出す物理学よりは、現実に測定できる量(物理量と呼ばれます)だけから構築され、古典力学との関係が明確で、数学的にも完成度の高いと考えました。しかし、後にシュレーディンガーが両方の考え方は同じだという証明をしたことや、アインシュタインとの議論からΨの意味をより確かめる意味で始めた、水素原子の電子のようにある場所にとどまっているような電子の例ではなく、束縛を受けないポテンシャルによる散乱現象の考察によって、電子の波動の進み方についての確率的な解釈をとるようになったそうです。彼はシュレーディンガーの考えを受け入れたといえます。前に紹介した彼の教科書(邦訳『現代物理学』には、湯川秀樹の『マックス・ボルン博士について』という前書きがありますが、そこで彼は『科学者の中にもおのずから甘い人と辛い人があることを否定できない。マックス・ボルン博士は典型的な甘い方の学者のように思われるのは…]』とあり、ボルンが弟子たちの新しい発想をすぐに受け入れ、また、確率論的解釈も受け入れて、量子論の発展に寄与したことが大きいと述べています。

しかし、ボルンは、彼が理解して主張した確率論的解釈には、プランク、ド・ブロイ、シュレーディンガー自身も批判的で、自分はボーアなどと彼らを説得するのが大変だったと述べています。一方、行列力学の正当性はやはり彼の弟子のパウリによるとあり、この形式的な理論が成果を上げた理由は、「解釈よりも数学の方が正しかった」からだと述べています。その後、行列力学は広く受け入れられてきました。しかし、ここでは量子力学の面白さという立場から、理論的に完成度の高く、ニュートン力学との対応もできるにも関わらず、すこし無機質な食感の残る行列力学については、ここではこれ以上触れないことにしました。

ちなみに、ハイゼンベルグは1925年の7月ごろ、行列力学の基礎となる考えをまとめて論文を書き、パウリに見せたのち、ボスのボルンに投稿を依頼したそうです。というのは彼は当時花粉症(Hay Fever)に悩まされゲッティンゲンから海の方へ移ったそうです。ボルンはその論文を読んで投稿し受理されました。しかし、すぐさまハイゼンベルグの考えを、助手だったヨルダンが数学的に整備し発展させて、今日行列力学と呼ばれる量子力学の理論体系を完成させました。ボルンの講演録によれば、ハイゼンベルグが不在の中で発表したヨルダンとの共著論文について、彼がいないのは残念だったと述べています。また、その後3人の共著の論文も出たのですが、その間の意見交換は複雑だったとも述べています。最初から3人の共著でもよかったのではと筆者は思います。ハイゼンベルグも1922年にノーベル物理学賞を授与されますが、その時の講義録では次のように述べています。

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ハイゼンベルグが花粉症でゲッティンゲンを離れたのは24歳、ボスは確かに論文を発表してくれたのですが、それを発展させた論文には共著者に自分の名前はありません。まさか「ボスにやられた」とは思わなかったでしょうが、ノーベル賞をもらって封印された多少の不満が残ったのではないかと筆者は邪推します。

上の数式の最初の部分がボルンの墓に刻まれています。因みに「Quantum mechanics,量子力学」という言葉はボルンが作ったそうです。一方、ヨルダンもなかなか複雑な人生を歩んだ学者です。上で引用したwikipediaを見るとよくわかります。

また、ボルンとヨルダンの共著論文と、ハイゼンベルグのアイデアとの関係を論じた論文は興味深いと思います。