5月になって

投稿日 : 2022.05.13


5月3日 Oda do sąsiada

著者はポーランドとベラルーシは歴史的にも文化的にも近い関係にあるにもかかわらず国境の壁が非常に高くなっていることを憂いつつ、その原因として、ベラルーシの大統領を次のように激しく非難しています。次のような表現は日本ではあまり公共のサイトではみられないものですが、状況を直截に表すもので、強いインパクトを感じます。

”Estonia, Łotwa, Litwa, w końcu Ukraina - piękne kobiety, które powstały z żebra Sowieckiej Rosji, ale nie chciały mieć wiele wspólnego z resztą jej szkieletu. No i ta nierządnica Białoruś, do dziś siedząca na kolanie Putina, znosząca jego łapy pod spódniczką i przyzwolenie na gwałt ojczyma z ironicznym poczuciem humoru. Jego ostateczną zdradą było przyjęcie w gościnie rosyjskich wojsk i otwarcie dla nich granicy z Ukrainą. To nieuchronnie prowadzi do wenerycznej choroby"

『エストニア、ラトビア、リトアニア、そして最後にウクライナ。ソビエト・ロシアの肋骨から立ち上がった美しい女性たちは、残った骨とは関わりをできるだけ持ちたくなかったのです。しかし、あの娼婦ベラルーシは、今もってプーチンの膝の上に座り、スカートの下で足をふんばって、継父のレイプを皮肉なユーモア感覚で容認しているのです。彼の究極の裏切りは、ロシア軍を客として迎え入れ、ウクライナとの国境を開いたことです。これではきっと性病に罹って(肉が骨から落ち始める)でしょう』

現地の事情に疎い筆者には、ここでいうユーモアの中味については、今一つよく理解できませんでした。なお、ベラルーシには自国と通ってロシア軍がウクライナへの侵攻する道を妨害している人たちもいることも著者は付け加えています。

5月4日 Ej, Boris!

”Obserwując brytyjskie media można odnieść wrażenie, że wojny już nie ma. Na pierwszych stronach gazet jakiś poseł bije się w piersi, bo oglądał w parlamencie pornografię. Kilkakrotny mistrz turnieju tenisowego w Wimbledonie, Boris Becker skazany został na karę więzienia za oszustwa. Jakaś walijska wioska została najlepszą nadmorską miejscowością na Wyspach. Zrobiło się cieplej i Brytyjczycy delektują się długim weekendem. Powtarzam sobie, że mają do tego prawo. Nie da się cały czas myśleć o wojnie. Przychodzi zmęczenie. Zresztą nie ma znaczenia, że nie myślimy o niej w Londynie czy Paryżu, jeśli będzie atomowa”

『イギリスのメディアを見ていると、戦争が終わったかのような印象を受けます。新聞の一面には、国会でポルノを見たからと胸を張る国会議員がいるとか、テニスのウィンブルドン大会で何度も優勝したボリス・ベッカーが、詐欺罪で実刑判決を受けたとか、ウェールズのどこかの村が、アイルランドの最高の海辺のリゾート地になったとか。

暖かくなってきて、イギリス人は長い週末を満喫しています。彼らにはその権利があると自分に言い聞かせているのです。戦争のことをずっと考えていろといっても無理な話です。疲れが溜まります。とにかく、ロンドンやパリからでは核兵器だといってもどうしようもないのですから』

外野席の無力感とダッガウトの中の現実との激しい温度差が伝わります。時が経つにつれて日本でもこの戦争のニュースの密度が少し薄くなっているようにも見えます。

5月5日 Po przerwie, której nie było 

ここでは野ざらしになっている死体を述べています。

"Krew jest oznaką życia pod warunkiem, że krąży w zamkniętym obiegu. Gdy wydostaje się poza ciało, zwiastuje koniec. Jeśli wyleje się jej za dużo, człowiek umiera. Dzięki niej można ocenić, czy ktoś zginął przed chwilą czy tydzień temu. Świeża krew paruje. Stara zmienia kolor na karmazynowy i z czasem przypomina łuskę. Staje się wówczas lepem na owady. Wpadają w jej sidła i przestają się ruszać. Przypominają konających żołnierzy. Tylko dzikie zwierzęta nie narzekają na śmierć. Dla nich martwy człowiek to mięso - jest pożywieniem. Nie odczuwają wyrzutów sumienia, jedynie skręt kiszek z głodu. Ukraińskie pola usłane są trupami, które nie doczekały się pogrzebów. Niebo jest dla ich trumną"

『血液は閉じた回路を循環している限り、生命の証となるものです。それが体から抜け出るとき、終わりを告げるのです。こぼし過ぎると死んでしまう。誰かがついさっき死んだのか、1週間前に死んだのかがわかるのです。鮮血が蒸発する。古い血は真紅に染まり、時間が経つと鱗状になります。そして、それが虫の罠になります。彼らはその罠にはまり、動かなくなります。死にゆく兵士のようなものです。死んでも文句を言わないのは野生動物だけです。彼らにとっては、死んだ人間は肉であり、食べ物なのです。彼らは反省することなく、ただ空腹を感じています。ウクライナの野原には、まだ埋葬されていない死体が散乱しています。天国が彼らの棺です』

戦争では兵士や一般人の犠牲者の遺骸が戦地に残されます。太平洋戦争でも大陸や南方の島々に、また海の底に、そして空襲で廃墟になった都市の地下にどれほどあるかは正確には分からないのではと思います。戦死者の遺骨が帰らず、代わりに現地のものだという怪しげな土が遺族に渡される例を身内の話として知っています。とにかく、ウクライナの戦禍に倒れた人々の死体のありのままの映像は、もっとながしていいのではと思います。その人々の唯一の最期の形見ですから。

5月6日 Orgia w Mordorze

ウクライナを攻めている傭兵の話です。

"Tymczasem rosyjscy jeńcy wojenni pytani o wrażania z najazdu na Ukrainę, udzielają zaskakujących odpowiedzi. Wielu pochodzi z odległych republik graniczących z Chinami. Najbardziej ciekawi ich fakt, że na ukraińskich drogach położony jest asfalt. Zastanawiają się, po co? Na pytanie, w jakim celu zabijali cywilów, nie mają już zdecydowanej odpowiedzi. Trudno o pełniejszy obraz współczesnej Rosji. Z jednej strony bezzałogowe drony, które pod wodą przemycają broń nuklearną, z drugiej żołnierze, których w Ukrainie może dziwić wszystko. Dlatego na zajętych przez siebie terenach plądrują i kradną. W ich rękach suszarka do włosów czy kuchenny mikser awansują do miana wojennego łupu"

『ところで、ウクライナ侵攻の印象を尋ねるとロシアの捕虜たちは意外な答えをしています。その多くは、中国と国境を接する遠い共和国から来た人たちです。彼らは、ウクライナの道路にアスファルトが敷かれていることに一番興味を示しています。何のために? なぜ民間人を殺したのかという問いに対して、彼らはもはや明確な答えを持っていません。現代のロシア(の状況)をこれほどまでに描写することは難しいでしょう。

一方では核兵器を運ぶ水中ドローンがあり、他方ではウクライナで何があっても驚きもしない兵士がいる。そんな彼らだから占領地で略奪や盗みを働くのです。彼らの手にかかれば、ドライヤーもキッチンミキサーも戦利品になります』

ユーラシア大陸の中心部は、大昔からいろいろな強国が覇権を競ってきた場所です。そこでは時々に興った強国に支配された弱小国の民が、兵員として駆り出されてきました。今回の戦争も大昔から続いて来たそのような民たちの戦争の作法の延長と思えば納得できそうです。狩猟民族、騎馬民族、そして農耕民族の複雑に絡んだ血の戦いに見えます。今回の戦いの覇者はまだ予想できませんが、その先には現存する大国、強国といわれる国々に支配される世界ではなく、想定外の世界が現れそうな予感がします。もちろんすぐにというわけではありませんが。

5月7日 Jest i nie ma

5月9日 Ten jeden kolor

この日は旧ソ連圏ではナチス・ドイツに対する戦勝記念日です。日本の8月15日が太平洋戦争の戦勝国にとっては戦勝記念日であるのと同じです。

この日プーチン大統領がウクライナに宣戦布告するとか、核兵器や化学兵器を使うだろうとかいう観測が事前になされていました。実際はそうにはならなかったわけですが、その理由もいろいろあって、実はこのところロシア軍が押され気味になっているからだという見方もありました。実際はわかりませんが、ロシアではあまり盛大にというわけにもいかない理由があったのでしょう。

著者は"Ten jeden kolor"『一つの色』つまり『赤色』と題して、この記念日にロシアのどこかで行われてたという子供のパレードの様子を批判しています。子供たちへの洗脳によって、未来永劫血なまぐさい戦いが遺伝される危険を述べています。

5月10日 Ogień i woda

5月11日 Kadry wojny 

ここで次の話は印象的でした。掲載されている一人の兵士の写真の説明から話は始まっています。

"Siedzi w okopach z karabinem na kolanie. Wokół worki z piaskiem. Na głowie ma hełm, a w ręce komórkę. Obok leżą zapisane ręcznie kartki. To nie najnowszy rozkaz. Fedir Szandor jest wykładowcą na uniwersytecie. Kiedy trzeba walczy, a w międzyczasie prowadzi zajęcia ze studentami. Takich paradoksów wojny jest więcej. Pojawiają się nagle na ukraińskich portalach między nagraniem ze szturmu piechoty i atakiem drona na rosyjskie czołgi. Zawsze zadaję sobie to samo pytanie - czy to mi się śni, czy naprawdę w Europie toczy się straszna wojna. Rosja atakuje. Ukraina się broni"

ネットの無料翻訳を基に訳すとこんな感じでしょうか。

『塹壕の中で膝の上にライフル銃を置いて座っている。周りには土嚢が積んである。頭にはヘルメットをかぶり、手には携帯電話を持っている。その傍らには、手書きの紙片が転がっている。これは指令を出しているのではありません。Fedir Shandorは大学の講師なのです。必要なときには戦場で戦い、その間にも学生を指導する。このような戦争の逆説はまだまだあります。ウクライナのポータルサイトでは歩兵の突撃映像があるかと思えば、突然ドローンによるロシア戦車への攻撃の映像が現れるのです。私はいつも自問しています。夢を見ているのか、それとも本当にヨーロッパで恐ろしい戦争が起こっているのか?と。現実はロシアが攻めてきた。そしてウクライナは自衛している』

戦争の話ではありませんが、これを読んでふと思いました。昨今のコロナのおかげで、学校もリモートが盛んにおこなわれています。先生は学校へ出かけなくても授業や講義ができるし、学生も聴けるのです。効果のほどは双方の姿勢や熱意によるもので、先生をどう利用するかは学生さんの腕次第。そもそも授業や講義に出てさえいれば、知識や腕が自動販売機から出てくるように得られるというようなものではなさそうです。

だれでも天気がよければ海辺に行きたい、山にも行きたい、街にも出たい、でもそこでだって授業や講義が、業務だってできるはずです。そのような環境でこそ思いがけず創造的なアイデアが生まれるのではと思います。「それではダメだ」という声が聞こえます。しかし、ほんとうにそうなのでしょうか? 最近は大学も今のままではダメだから、もっと「卓越した」ものにするという話があるそうです。その大学は校舎も研究室もなく、その存在は外部からは見えないものになるのでしょうか? まさか、毎朝、朝礼があって、制服を着て、設立記念日には行進をするとか。