余談:似て非ざることながら

投稿日 : 2022.06.20


ロシアがウクライナへ侵攻したのは2022年2月24日。当初ロシア側はウクライナの反撃はなく、すぐにウクライナ全土を掌握できると予想したといわれています。彼らは8年ほど前の2014年にクリミア半島を併合した時の再現を目論んだのでしょう。

当時プーチン大統領は62歳ほどのことです。ところが現実はそうはいかず、彼のイライラが溜まって、ついには核兵器の使用を何度も公言する状況で現在に至っています。

筆者はこの状況から、かつて太閤秀吉が明を滅ぼすために朝鮮半島へ攻め込んで、結局敗退した俗に文禄・慶長の役(韓国では壬辰戦争、英語ではJapanese invasion of Korea)を重ねてしまいました。

というのは、筆者が興味を持ってきた江戸時代の歴史家の木村高敦による『武徳編年集成』に、この侵略戦争が、徳川サイドのすこし秀吉とは距離を置いた立場で記述され、なかなか興味深く読んでいたからです。ここで、すこし高敦の記述を辿ってみます。

彼は次のように述べています。

天正19年(1591)12月28日 秀吉は突然関白職を嫡子内大臣秀次に譲り、太閤になった。

この秋、秀吉の実子の鶴松が早世して秀吉は悲しみに暮れていた。そのような状況で彼が以前から考えていたことではあるが、明では愚かな皇帝が続いて政治が衰退していると聞いて、今こそ「百年の齢を縮むべきに非ず(自分には時間が残されていないので、という意味でしょうか)」来年、朝鮮国を攻撃する。

そうすると民衆たちはすぐに自分に服従するだろう。そうすれば自分が中国へ渡ってすぐに400余りの州を征伐して自分の望みを果たしてやる、という大胆な考えを持った』

秀吉54歳の頃です。当時の平均年齢は非常に若いので、彼は長生きの部類とはいえ先を感じていたのかと想像しました。

それにしても大胆というより無謀に思えるこの考えは、誰が彼に吹き込んだのでしょう。
とにかくこの年は大変な時で、長らく贔屓してきた千利休が殺されました。映画『花戦さ』はその一端を描いています。

その後のいきさつは原文に譲って、ここでは、その中からいくつかを抜粋してみます。

『3月 朔日 朝鮮征伐へ向かう大将、小西と加藤らが京都を発った。

同 26日 秀吉父子が諸国の大名などを率いて朝鮮征伐の為に西国へ向かった。

7月 朝鮮へ渡った各大将は王城を破り3道を進軍したが兵糧が続かず、その上明国から多数の援軍が到着したので、3奉行の増田長盛、石田三成、長束正家、それに加藤清正と小西行長は援軍と兵糧を増やすように秀吉に要請した。

秀吉は家康と前田利家と日夜その対応を相談した。

黒田勘解由孝高入道如水は席を外してから、「そもそも大軍を出兵させる際にはまず大将の選び方が問題だというのは昔からの常識である。日本兵が朝鮮に入るなら大軍を指揮すべきなのは秀吉の外にはいない。それができなければ前田利家とか自分を行かせるべきだった。

戦いを周知し国を治められる者でないと朝鮮の民衆を服従させることなどできない。ところが秀吉は加藤や小西なんぞに軍を任せた。彼らは自分たちの勢いのままに先を競っている。その結果、小西の戦法を加藤は採用せず、加藤の戦法を小西が納得しない。だから朝鮮の人民は彼らを信用せず恐れてみな逃亡してしまった。おかげでわが軍が抑えた三道は皆荒れ地となって草も生えていない状況である。このような状況であの国を治めることなんぞできるわけがない」と独り言をいった。

これを秀吉は障子の裏で聴いていた。

あるとき、秀吉は、家康と前田利家、蒲生氏郷、浅野長政などを呼んで会議したときに、「日本の兵は朝鮮へ出ても帰国の事ばかりを考え、敵を撃退させる意気はない。自分が出て行ってあの国を治めよう。日本の留守を治める人は新田殿(*家康)以上の者はいない。前田利家を大将に10万の兵を自分の左軍とし、蒲生氏郷を大将に10万を右軍として、自分の家来10万を中心に都合30万で朝鮮へ渡り、すぐに明の帝都に乗り込んで自分は中国の皇帝になる。早く船を準備せよ」と命じた』

高敦がこの話をどこで知ったのかは明らかではないのですが、前線と参謀本部の様子は目に浮かびます。秀吉が本当にそう思ったとはかなり平常心が失われていたように見えます。明へ行ったこともない彼が、広大な大陸へ攻め込んでどうなるのでしょう。同じことを日本は20世紀にも起こしました。

家康は、「そういわれても・・・」というと、浅野長政が『恐れながら今太閤には狐がついて気が狂ったことをいっていると思える。気にしないように」といった。これを聴いた秀吉は非常に怒り長政を斬り殺そうと席を立った。利家と氏郷は袖を抑えて「秀吉が自身で手を下してならない。自分たちが長政を斬る」といった。

長政は慌てず「自分のような小者が命を落として国が泰平になるのなら何人殺されても命は惜しくはない。しかし、この先日本の人民は1日も休めなくなる。若い者は兵役に苦しみ、老人や子供は物資の運搬で疲れてしまう。ここは国費の消耗や国民の疲弊を考えるべきである。また、今秀吉が朝鮮へ渡ると、いくら家康と云えどもあちらこちらで起きる一揆を収められなくなる。秀吉は朝鮮へ行くのを思いとどまり、朝鮮へ出ている兵も早く京都へ引き取らせてほしい。人民が平安で国が長く続く策に出てもよいではないか」と続けた。

秀吉はカンカンに怒った。利家と氏郷は長政を叱って座を立たせた。長政は宿舎へ帰って罪が下されるのを待ったという。

その後、秀吉は秋から関白秀次に朝鮮へ行くように命じ、秀次は仕方なく同意したが、秀吉の母が病死したので渡海はしなかった。云々』

その辺から秀吉は彼を疑い、結局後日殺してしまう。

文禄2年(1593)4月朔日 秀吉は大友宰相義統が朝鮮でサボタージュを行ったというので豊後の国を没収して長門へ流した。(毛利輝元が預かった)又息子の左兵衛督義乗は武士を廃業して宮中へ勤務せよと100人分の月給を与えて肥後の熊本へ行かせた。

島津又太郎(諱は不明)は同姓兵庫守頭義弘に従って朝鮮で参戦したが、義弘の命令に背いてサボタージュを行った。そのため給料を没収されて一旦義弘に預けられた。

波多三河守信時は鍋島加賀守の家来だったが、やはりサボタージュを行ったので肥前の戸津の領地を没収されて黒田長政に預けられた。

7月18日島津龍伯と弟の祈答院左衛門太夫歳久入道晴蓑は朝鮮国で怠惰だったとして、細川兵部大輔藤孝入道玄旨を立ち会わせて自殺させた。この人は病気で苦しんでいたのにサボりだとされてしまった』

ところが、

『8月3日秀吉の妾(浅井備前守長政の娘で、淀殿という)が男子を生んだ。捨丸と名付けられた。後の秀頼である。秀吉は非常に喜んで、朝鮮との和平交渉は沈 惟敬にまかせ、派遣軍の処置は前田利家にゆだねるといって船に乗って名護屋から大阪へ帰った。祝賀気分が世に満ちた。家康も誕生祝のために日を待たず名護屋から出帆した』

さて、和平交渉は長引いたようで、最初の侵略から6年後、秀吉60歳ごろのこと、

慶長2年(1597)2月13日 この日、秀吉は再び14万の軍勢で朝鮮へ攻め込んだ。

4月下旬、秀吉は石田三成を呼んで、「自分は朝鮮の戦に飽きてしまったので話を聴きたくない。お前は肥前の名護屋で指揮を執れ」と命じた。三成は固辞したが許してくれなかった』


『5月5日 端午の節句の勤めを終えたのち秀吉は病にかかった。養安院が脈をとってみると異常はなかったが非常に変だった。そこでいろいろセカンドオピニオンの意見を聴いてから薬を飲ませることになった。京都からの要請で、夜中に通仙院、施薬院、竹田法印が駆けつけ診断をした結果、所見は一致した。

7日 秀吉の病状は非常に悪く、昨夜は夜中まで養安院は薬を与えたが病状が好転しないので、彼は他の医者たちと相談してもう一日適当な量の薬を飲ませた。

8日 秀吉は武田法印の薬を飲んだ。

下旬 秀吉の病状はますます悪くなり、虚損の症(*衰弱している状況)という。

6月2日 いろいろな医者が来て秀吉の脈をとり、これは治らないだろうということになったという。

17日 秀吉は日を追うごとに痩せて食欲もなくなってきた』

結局、秀吉は翌年死去し、この戦いも終わりました。その後の戦後処理についての家康や対馬の宗氏の役割などについて、高敦は比較的詳しく述べています。また、朝鮮と明の関係についてもなかなか興味深い記述があります。

このような国際的な大戦争も、その遠因については多くの議論があったとしても、所詮独裁者の権力欲、復讐される恐怖、そして迫りくる己の寿命から来る焦りという、実に個人的な心理状態によって引き起こされ、多くの人命と資金が失われたのは間違いのないところです。もし秀吉が核ミサイルという大筒を手に入れていたとすると、いつそれを使おうと思い立ち、誰が止められただろうと、つい思いました。

注:『文禄・慶長の役(壬辰倭乱)』 六反田豊/田代和生・吉田光男・伊藤幸司・橋本雄・米谷均・北島万次には、いろいろ興味深い記述があります。