巻4 永禄元年正月~永禄3年8月 桶狭間の戦
投稿日 : 2016.01.17
修正2107.3.3.
永禄元年(1558)
正月大
元康(17歳)は駿河に住んだ。
10日 松平伝七郎重親(能見の松平光親の子)が死去した。次郎右衛門重吉が家督を継いだ。
〇今月 今川義元は元康に向って、「三河は歴代の徳川の領地であるが、最近は土地の士が尾張の織田に通じているので、早く彼らを滅ぼして家来たちに領地を与えるように」と述べた。元康は喜んで承諾した。
2月小
元康は駿府から故郷の三河の岡崎に帰還した。親戚や譜代の家来たちは呼ばれなくても全員が集まった。
5日(9日という説もある) 加茂郡寺部の鈴木日向守重教は最近今川を叛いて、織田方についた。元康はこれを討つために寺部へ出撃し、石川安芸守清香兼、酒井、本多らを先鋒として城を急襲した。
城兵も出てきて大いに応戦した。本多作左衛門重次と弟の九蔵重玄が城に一番乗りし、敵3騎を斬ったが自分たちも負傷した。重玄は深く攻め込んで戦死した。城兵は彼の勇敢さに感心して首を返却した。その首には13カ所の傷があり、それを見て皆が驚き感心した。
松平次郎右衛門重吉は苦戦して負傷した。次男の般若之助(17歳)と従者の名倉惣助は討ち死にした。
重吉と福釜の松平三郎次郎親俊らは、奮戦して敵を城中へ追いやり、二の丸、三の丸まで破った。鈴木がもう少しで本丸に迫っていたので味方は奮起して敵を倒し、100ほどの首を取った。
〇元康が岡崎に戻ったことを織田信長が聞いて、西三河の城や砦の兵を増強した。
元康の家来、大久保五郎右衛門忠勝、同じく七郎右衛門忠世、内藤彌次郎家長らは、加茂郡広瀬の城主、三宅右衛門太夫を襲った。
尾張の援兵、津田兵庫守神戸甚平は城外へ出撃して合戦になった。大久保忠世は津田を討ち取った。江原孫三郎は神戸と対抗したとき、従者が傍から神戸を突き殺して首は孫三郎が取った。
内藤三左衛門信成は14歳だったがよく戦い、味方を勝利を導き、城まで敵を追い詰めた。
竹谷の松平玄蕃頭家清、深溝の庶流の同じく勘解由康定は「全員は10町退却せよ」と命令した。すると果たせるかな、加茂郡挙母、設楽郡中島、尾張愛智郡丹下の4箇所の城兵たちが出撃してきて、あちらこちらに陣を構えた。
石川安芸守は、「元康の初陣としての2日は上出来だったが、これ以上戦果は得られないので、今勝っているが、これ以上の戦いは控えた方がよい」と述べ、直ぐに兵を退却させた。
それから日を置いて、挙母、梅が坪、伊保など加茂郡の城を攻めた。また、碧海郡、横根村石ヶ瀬を攻め、叔父の水野下野守信元と合戦し多くを射殺した。
内藤甚一正成(後の四郎左衛門)は党委の弓術で敵を射殺し、また、「十文字の槍」で敵を突き殺し、首を取った。
渡邊半蔵守綱(17歳)は魁して首を取った。元康は朱色の具足をつけて、先発隊の中で指揮をとり、ついに戦いに勝利した。
この様子を見ていた信元は、元康がなかなかよくやるので、敵ながら非常に喜んだとか。
元康は岡崎に凱旋し、使いを送って今川義元に勝利の報告をした。義元は大いに喜んで、三河の加茂郡山中300貫の地を元康に与えた。
3月大
〇今川の命令で、桜井の松平監物家次が尾張の春日井郡村野の城番として守っているところへ、信長は兵を率いて城の四面に砦を築き、数回この城を攻めたが、家次は堅く守り通した。
7日 早朝、監物、家次は、寄せ手の虚をついて争うように襲撃したので、尾張勢は全て退散した。家次は追撃して砦の武将、竹村孫七郎、磯田金平、戸崎平九郎、滝山伝蔵など50人の首を取って、元康に献じた。
〇世に知られたこととして、戸田庄左衛門光忠(または成長)は、本日7日に重原にて戦死したという(庄左衛門は織田方なので、法諱は確かめていない)。
その子三郎右衛門忠次は浪人となり、碧海郡佐々木辺りに蟄居してからあと元康についた。
〇『三宅家伝』によれば、惣右衛門は今度岡崎に来て元康につき、康貞という名前を賜った。彼の母は鳥居伊賀守忠吉の娘で、彦右衛門元忠の姉だという。
4月小
〇元康が駿府に行くと、義元は今回の戦勝を喜んで元康に太刀を与え、家来たちからは元康の手柄を聴いた。元康は、「松平重吉は自分の縁者の家来だが、今回は特別の功労があった」と伝え、義元は重吉に感謝状を授けた。
「感謝状」
この他、松平監物らにも書状を送り戦功を褒めた、元康からも感謝状が贈られた。
5月小
28日 織田信長は、尾張の丹羽郡岩倉の城を攻めるために浮野原へ出撃した。城からは足軽が馬に乗って出てきた。その後信長は遊撃隊を組織し、本隊を城の近くへ進ませた。すると、城からは千名ほどの敵が出てきた。そこで奇襲攻撃をかけたので敵は惨敗し、信長勢は270ほどの首を取った。この戦いで柴田権六勝家は復帰して大健闘をし、以前の償いをしたという。
6月大
6日 今川義元は、三河設楽郡作手の奥平監物貞勝の親戚である松千代に感謝状を贈った。
『感謝状』
この松千代は後に名倉喜八郎信光と名乗り、元康に仕えて慶長年代に尾張の太守、羽林忠吉の家来となって、戸田加賀と称した。
7月小
12日 信長は2千の兵と、丹羽郡犬山の城主、織田十郎左衛門信清の兵をあわせて3千で、同郡浮野原へ出撃した。
このとき岩倉勢は総勢3千で応戦したが負けてしまい、城へ逃げかえったが、南側の清州勢、北側の犬山勢はそのまま何もせずに引き上げた。2度目は、寄せ手が負けて城兵に追われた。犬山方の高木左吉、生駒勝助、兼松牛之助が戻ってきて反撃した。前田左馬助は、最初織田信清に仕えて軍の指南役をしていたこともあるが、最近は岩倉の城にいてこの日土倉四郎兵衛と戦って討ち取られた。
信長は兵を連れて戻ってきて城を破って多数の首を取って帰ったが、中でも豪傑だった林彌七郎の首は、佐藤藤太郎良之(前田利家の弟)が取ったという。
〇この年、元康の娘が生まれた。(母は平原氏の女)
老臣本多豊後守廣孝、石川安芸守清兼、天野甚右衛門景隆らが駿府に交渉に赴き、次ぎの3か条を訴えた。
1) 元康を岡崎城に住まわせれば、岡崎の幹部を人質として駿府に送る。
2) 今川が岡崎に置いている番人を駿府に戻す。
3) 額田郡岡崎、加茂郡山中の知行をすべて元康に渡す。
これを繰り返し嘆願したが義元は聴かず、「早々に織田を退治するために兵を挙げよ、その時に自分は巡視して、徳川の祖先の領地を間違いなく返してやる」と答えた。岡崎の老臣たちは非常に憤慨して三河へ帰った。
永禄2年(1559)
正月
織田信長は尾張の丹羽郡岩倉の城外を焼き払い、二の丸まで攻め込んで柵をもうけ、今月から2~3ヶ月の間兵糧攻めにしたので、城兵はついにみな逃げてしまった。
3月小
朔日 信長は千余りの兵で尾張春日井郡科野の城を攻撃した。義元の命令で元康の家来、藤井の松平勘四郎信一(後の伊豆守)は城番として守り通した。
3日 織田の軍は今日まで昼夜を問わず科野の城を攻め続けて、死傷者が180人ほどが出た。今夜は風雨が激しくて、信一は城外へ夜討ちのために出陣し、大勝利を得た。寄せ手は54人が命を落とし、117人が負傷した。これを信一は元康に報告した。元康は喜び、義元からも信一に感謝状が来た。
元康は駿府より兵を率いて岡崎に立ち寄り、加茂郡寺部、擧母、広瀬、梅が坪の敵の城を落として岡崎の領地とした。それで恩賞の地を得た家臣たちは元康を賛美して、「清康の生まれ替わりだ」といったという。また、加えて駿府の館では、元安の妻が男子を産み、三郎と命名された。後日、信康となる。幕下の家臣たちはこぞって非常に喜んだ。
この年、今川義元は国が栄えて軍隊も強く、甲斐の武田、相模の北条を服従させて姻戚関係をもったので、周辺の国々は恐れてビクビクしていた。また、尾張の織田一族を信長に叛くようにそそのかして、尾張を征服しようとしていた。
信長は16歳という若さで、この11ヶ月の間に次々と敵を殲滅してきたものの、尾張の知多、愛智、春日井の三つの郡には今川の支配地があった。天文以来、義元は愛智郡鳴海の城には岡部五郎兵衛眞幸、笠寺の砦には葛山備中、三浦左馬助義就、飯尾豊前顕茲(致實の父)、浅井小四郎政敏、知多郡大高、愛智郡沓懸の城には鵜殿三郎長持を配置し、春日井郡科野には徳川衆を置いて、なかなか豪勢な暮らしをしていた。
やがて今川は尾張を滅ぼして美濃や近江を押え、破竹の勢いで京都へ登り、天下を取ろうと準備をしているという話に、信長はありうることだとして、愛智郡と知多郡で今川を阻止しようと、中島、善照寺、鷲津、丸根、川下などの要地にすべて城を築いて兵を配した。しかし、これら5か所の城の造りは粗雑で兵も少なく、今川の大敵には勝ち目がなかったので、この時期は織田家にとっては存亡の危機だったといってよいだろう。
5月小
〇尾張の知多郡鷲津の砦を守る信長方の飯尾近江守定宗、その子隠岐守信宗、織田玄蕃信昌、丸根の砦(棒山の城という)の佐久間大学助盛重は折を見て出兵し、今川の領地、同郡の大高の城を攻撃した。
城には兵糧が乏しいと駿府に急報を入れた。義元は老臣を集めて、大高の城の周辺はことごとく敵方なので兵糧を補給するのは難しい。徳川元康は若いが武勇に優れて腕もよいので、彼に頼もうといった。老臣たちは保身のためにそれを承認して、元康を呼んでそのことを命じた。元康は別に怪しむことなく、直ぐに岡崎に帰って兵を用意した。家臣たちはみな元康の為に雲霞のごとく勇んで馳せ参じた。
酒井将監忠尚左衛門尉忠次は、伯父甥で徳川の本家の家臣であるが、松平監物家次とともに義元についていたので、今回の命令に従って兵を率いて先鋒を務めた。
元康は18歳ほどだが、溌剌として千の兵を率いて大高の城へ向かった。彼は城の近くで俄かに軍を左右に分けて進軍し、敵方の隙間をくぐって兵糧を運びこむ策を考えた。大高と沓懸の2つの城はどちらも駿河の家臣の鵜殿三郎長持が守っていた。
このころ信長は、鳴海の海岸に出て城や砦を巡視していたが、元康は信長が兵糧の供給を遮るために出てくるだろうと考えた。そこで、鳥居四郎左衛門元信(信廣ともある)、内藤五左衛門義教、同じく四郎左衛門正成、石川十郎左衛門、杉浦藤次郎時勝、同じく八郎五郎鎮貞に尾張勢の形勢を探らせた。そのうち5人は、「敵の備えは十分で、後ろを遮って兵糧の道を遮ろうとしている」といった。しかし、杉浦八郎五郎だけは、「敵は戦いを望んでいない。直ぐに兵糧を運び込むのがよい」といった。
鳥居、内藤は、「おまえは敵の勢いがわからないのか?どうしてそんなことをいうのか」と怒鳴った。杉浦は、「もし敵がわれらの行く手を遮って戦いたいと思えば、山の上から攻めてくるはずである。彼らはこちらの兵を見て、山へ兵を移すべきかどうかどうかを判断しているはずだ。しかし、その様子が見られないから敵は戦う意志がない。直ぐに兵糧を運びこむべきだ」といったという。元康は彼の意見に従った。
10日 元康は服釜の松平親俊、酒井正親、石川数正らで早朝に鷲津城へ出陣し、外柵を破って火を放って攻め込んだ。丸根などの敵は驚いて救援軍を派遣した。元康はスパイを放ってその様子を探らせ、直ぐに小荷駄(*輸送係)を呼び込んで大高へ向かわせた。
このとき、元康は、隊を3列に分け、各1列目を分隊にわけて、奇襲隊と本隊、それに遊撃隊として3段に備えさせた。そうして1列目の中で本隊が入るべきところに輸送隊を入れて、半町ごとに弓矢鉄砲隊を組み合わせて配備した。
そうして、「敵が横から攻めてきたときには本隊が対応して遊撃隊は敵に横槍をいれる、また、遊撃隊と前後の備えは、敵に関係なく輸送隊を守り城へ突入する。もしも敵が強かった場合には、各列の本隊が対応し、奇襲隊が援護せよ。そのとき遊撃隊は輸送隊を援護せよ。敵がかかってくる方向に応じて、本隊は奇兵に、奇兵は本隊への臨機応変に対応するように。3隊のうち先鋒を務める奇兵が5町ほど先に進んで大高へ接近したとき、各パートは前後に循環しながら進み、輸送隊がその後に詰め、兵糧を城へ運びこむように」と指示した。
敵はこの作戦に気づかず、鷲津を救援しようとしたので、その間に兵糧を無事大高に搬入した。鷲津へ向かった兵も無事引き返した。(このほか、奥平監物貞勝は、敵を混乱させ元康から感謝状をもらった。また、小栗仁右衛門忠吉は斥候に出た先で敵を討ち取った)
元康は岡崎に帰って、急ぎの書状で義元に報告すると、義元は非常に感心して、「龍の子は龍を産むとはこの人のことか」といった。
信長は「そのうち元康と和融したいものだ」と思った。諸国の武将たちもこの話を聞いて、「僅か18歳でこれだから、大人になったらさぞや凄い人になる違いない」と驚いたという。
10月小
〇狩野大炊助(後の越前守)元信入道法眼永(*室町時代の絵師。狩野派の祖)、享年83歳で京都にて死去した。(この人は徳川とは関係がないが、世に「古法眼」といわれた書画家なので、ここに記した)
〇この年、三河猿投山の麓で槍水三郎左衛門重政(32歳)が甲州勢と戦い戦死した。(この人は忠兵衛重次の父である)
〇松平次郎右衛門重吉の三男、伝三郎重勝(22歳、後の大隈守)と渡邊半十郎政綱(26歳、後新左衛門)が初めて元康の家来となった。
〇信長の娘誕生、徳姫が誕生した。後年岡崎三郎信康の正室となるが、信康が自害した後は京都烏丸中御門に住んだ。(寛永13年(1636)5月10日、78歳で死去、大徳寺の塔中、総見院の天端寺に埋葬され法諱は見星院香岩桂壽である)
永禄3年(1560)
2月大
27日 天皇の即位式が行われた。即位は一昨年であったが、当時朝廷はその費用がまかなえず遅れていた。今回行われたのは毛利右馬頭と大江元就が費用を調達したからである。(これによって、元就は従三位に叙し、大膳太夫を任じられ、菊と桐の紋を賜った。彼は死後に三品を贈られた)
5月大
10日 今川治部大輔義元は、駿河、遠州、三河の兵4万を率いて、駿府を出陣した。
17日 義元は三河の碧海郡池鯉鮒(*知立)に着いた。元康は先鋒として岡崎より出陣した。
18日 元康は尾張の知多阿古屋にすむ久松佐渡守、菅原俊勝の家に泊まり、母に対面した。俊勝にも面会した。
三郎太郎、源三郎、長福の3人の弟が母のそばに座らせられていた。元康は3人の面相がなかなか優れていると気に入って、「自分には弟がいないので、3人に松平の名前を与えて身内とする。三河へ来て自立する助けをしよう」といった。俊勝は喜んで、元康に薙刀と法螺貝を贈った。
以前、元康が熱田で囚われていたときに、母の使いとして俊勝の家来の平野久蔵、竹内久六郎が熱田に様子を聴きにきてくれたことを元康は思い出し、感謝した。後年、三郎太郎は松平因幡守康元、源三郎は松平康俊、長福は松平隠岐守定勝となった。
〇このとき、三郎太郎はさっそく松平の氏をもらい、金田鞆負宗房、鈴木小左衛門、坂部彌内、平野○角、吉田久兵衛を家来として与えられた。(この金田宗房は與三右衛門正房の長男で、後に味方ヶ原で戦死した)
〇この日、丸根城の佐久間大学助盛重は、「明日今川の大軍が押し寄せてくるという。こちらはそれに耐える備えはできないので直ぐ援軍を送ってほしい」と清州へ要請した。
19日 明け方に元康は今川の一員として丸根城へ出撃した。
石川日向守家成が先鋒で、山家三方衆(*作手の奥平氏および田峯の菅沼氏・長篠の菅招氏をいう)を魁(*さきがけ)として、三河の武将たちと家来によって、一、二、三の備えとした。また、幕下の小禄の兵も三隊に分け、その一隊は主力として直接突撃。別の一隊は遊撃隊、奇兵は側面の守備。もう一つの一隊は馬廻りである。
正軍の名簿:
松平又七郎家廣、同七郎昌久、同彌右衛門、同右近、同平助、同金助、加藤播磨景元、酒井将監忠尚、米津藤蔵、上野三郎次郎、河澄半七郎、柴田小兵衛正和、酒井功之助、足立左馬助、蜂谷半之丞貞次、大橋伝七郎、山本小四郎、月晦左馬助、酒井作右衛門頼次、大見藤六郎、天野太郎兵衛、加藤伝十郎、大久保右衛門八、近藤伝十郎、赤松日根之丞、酒井又六郎、佐野與八郎、酒井因獄ら。
遊撃隊の名簿:
松平勘解由康定、同玄蕃允清善、同勘四郎信一、同三蔵直勝、同次郎右衛門重吉、本多肥後守忠眞、鳥居伊賀守忠吉、小栗勘兵衛、同仁右衛門忠吉、加藤日根之丞、中根十三郎、村越十三郎、同久兵衛、同勘五兵衛、同左太郎、榊原彌兵兵衛忠政、荻田武左衛門、赤根彌六郎、同彌太郎、同藤三郎、松平伝十郎勝吉、山田清七郎、山本四平、加藤小左衛門重常、同伝蔵、波切孫四郎、本多喜蔵、天野清兵衛、足立孫四郎、石川善五左衛門、赤松新左衛門、天野助兵衛、同甚四郎、 村越新十郎、同左吉、赤根彌次郎、永見新右衛門勝定、遠山平太夫康政、近藤○左衛門、青木善九郎、川澄文助、川上十左衛門、池波之助、同水之助、岩堀忠七郎、平岩五左衛門正廣、杉浦蔵吉正(後の長左衛門)、同八郎五郎鎮貞、渡邊勘解由左衛門、同甚平治、吉野助兵衛、山田彦八郎、青木平太夫、筧平三郎重忠、 同牛之助重成、同助太夫正重、山本才蔵、小野新平、村井源四郎、平井善次郎、黒柳彦内、齋藤彦市、水野藤七郎、大久保七郎右衛門忠世、同治右衛門忠、佐渡渡兵六郎貞綱、同半十郎政綱、同八郎五郎義綱(後の八右衛門)、久世平四郎長宣、小栗五郎左衛門、同大六重常、朝比奈五郎作、大切七。
〇鳥居四郎左衛門信元、加藤源蔵、齋藤喜一郎、青山喜太夫忠門、久米新四郎、八国甚五郎、 酒井喜八郎、安藤九助重次、 筒井與左衛門、 土屋勘助重信、同甚七郎、内藤甚五左衛門善教、同四郎左衛門正成、佐橋乱之助吉久、大橋左馬助、石川大八郎、同右衛門、内藤與八郎、江原孫助、本多三九郎、浅見金七郎、 同主殿、三浦平三郎、近藤新九郎、黒柳金七郎ら。
馬廻り守護の名簿:
酒井左衛門尉忠次、同雅楽助正親、石川伯耆守数正、本多豊後守廣孝、同作左衛門重次、植村新六郎家政、高力與左衛門清長、天野三郎兵衛康景、安部善九郎正勝、平岩七之助親吉、同善十郎、同新八郎、内藤與惣兵衛正次、同三左衛門信成、植村庄右衛門忠安、高木九助廣正、新見太郎兵衛、今村彦兵衛勝長、松平彌九郎忠次、江原孫三郎、大竹源太郎吉治、朝岡久五郎、齋藤彦太郎、朝岡新蔵、植村権内、松平十郎三郎康孝、鳥居鶴之助、同林五郎、林藤四郎忠正、鳥居久五郎、加藤九郎兵衛、同十三郎、中根藤蔵、山田平五郎、赤根甚五郎、大野宗兵衛、矢田作十郎、大久保五郎右衛門忠勝、本多甚四郎、石川七郎左衛門、同新七、同新九郎、成瀬新兵衛、酒井又蔵、 同造酒助、佐野與五郎、内藤孫十郎、石川又十郎ら。
石川日向守と酒井左衛門尉は軍の奉行として左右へ駆け回って軍を指揮した。
丸根の城門が開いて敵が突撃してきた。元康はこれを見て、「兵が少ないなら城に立て篭もるべきなのに飛び出てくる。これをみれば、相手は一か八かで戦いを挑んできているように見える。だからまともに勝負しないで足軽軍で応戦して、その間に城を乗っ取るように」と指示した。
酒井雅楽助と石川安芸守は元康の指示を兵に知らせた。敵は早速魁の山家三方衆に向かって突撃してきた。奥平美作守貞能は「芝居の蹈敷」を奪って戦った。彼の一族、奥平の7人、周防、但馬修理、良久兵衛、貞友治左衛門、與兵衛、土佐又家の長5人、山崎善兵衛、生田四郎兵衛、兵藤新左衛門、黒屋甚右衛門、夏目五郎左衛門が大活躍をした。
元康は、魁の石川日向守の傍へ乗り入れて、朱色の具足で勇ましく団扇で指揮を取って兵を激励すると、高力與左衛門清長、福釜の松平三郎次郎親俊、五井の松平太郎左衛門景忠などが奮戦した。
高力新九郎重吉、筧又蔵、野見の松平庄左衛門重昌(次郎右衛門重吉の次男、24歳、最初は伝一郎)、大草の松平善兵衛三光(48歳、正親の父)などが戦死した。
敵は敗走したが、これを追撃していた佐久間大学は鉄砲に撃たれて戦死し、彼の家来も多数戦死した。
その間に、贄掃部氏信が一番乗りし、松平甚太郎の家来の左右田、奥平らが乗り込んで丸根城を落とした。
鳥居彦右衛門元忠(22歳)と本多平八郎忠勝(13歳)は初陣だった。元康は奥平貞能の一族7人、その家臣5人の功績に対して、田原矢をそれぞれ50本ずつ贈った。
〇ある話のよれば、佐久間大学は部下に向かって、「この城の兵はわずか400騎である、今川の大軍に急襲されれば直ぐに落ちてしまう。その時は自分はここで死ぬから各々はさっさと逃げてよい」といった。しかし、渡邊大蔵、大田右近、早川大膳、原田隠岐は城主とともに死ぬとして考えを曲げず、この日城外で戦死した。(大学の妻は後同姓の玄蕃允盛政に再婚し、彼が死去した後に新庄越前守直好の妾となった)
〇上に述べた丸根の城攻めと時を同じくして、今川方の先鋒の朝比奈備守泰能は、鷲津の城を猛攻して陥落させた。
城の飯尾近江守定宗、織田玄蕃允信昌以下、大半の武将は戦死し、城は焦土となった。定宗は、室町幕府の付き人として従4位の侍従までになった尾張奥田の城主、織田左馬助敏宗の子で、信長の親戚だからこの城を守っていたのだが、このとき死亡した。
〇義元は、すこし前に不吉な気配を感じていたが、気に留めず愛智郡桶狭間を本陣として兵を知多郡へ出撃させ、朝の内に信長方の丸根と鷲津の二つの城を陥落させて城主を討ち取った。
義元は「元康と朝比奈の働きを褒めて、大高の城は重要なので、城主の鵜殿長持は長く篭城して疲れているから、徳川が代わりに城へ入ってしばらく休むように」と指示した。そこで元康は大高の城へ入った。
この地は、三河の碧海郡今村に近く、家来の今村彦兵衛藤長と渥美太郎兵衛友勝が兵糧を提供した。また、服部左京は知多郡川内二の郷に住んでいて、近くの伊勢の長島の一向宗として宇久と伊良に砦を築いて今川についていたので、彼は一向宗の信徒を動員して軍艦数10艘に乗り込んで大高城下の黒末川まで来て、米を元康に提供した。
織田上総介信長(当時26歳)は以前から鳴海の城に来て一戦を交えようとしていた。長臣の林佐渡通勝は、「敵は4万以上もいる、味方の勢力は僅かなので野戦をやってはいけない、清州の城を守るべきだ」と進言した。
それに先立ち18日の夜に丸根の佐久間方から「敵は大高に襲来した」という連絡が来たが、信長は幹部を集めて酒宴をして作戦会議まではしなかった。猿楽師の宮福太夫が羅城門の舞曲の一節、「兵の交わり頼みある中の酒宴かな」と謡えば、信長は大喜びして黄金を与えた。
日が変わった早朝、鷲津と丸根の城に敵が来たという連絡が入ったが、信長は泰然として、敦盛の舞曲「人間五十年、幻転の内を競えば、夢幻の如し」というくだりを何度も舞ってから、やおら法螺貝を吹かせて、しっかり腹ごしらえしてから甲冑を着て馬にまたがった。
続いて、家来の岩室長門、長谷川橋助、佐脇藤八郎良之、山口飛騨、加藤彌三郎の主従6騎と歩兵と足軽合わせて200人ほどで、まず3里進軍して、熱田宮に参詣し、右筆(*秘書)武井有庵に命じて願書を書かせて神殿に奉納した。
この頃になると兵が集まって千騎ほどになった。ここで白鷹の旗を2本たてて進軍すると、熱田神宮の庇護があると兵たちが奮い立った。しかし、源太夫が神社の東を見て鷲津と丸根が落城したと思える煙が空に舞い上がっているのを見つけた。
信長は何とか早く進もうとしたが、浜辺の道に潮が満ちて馬も人も通れなかった。そこで「しばらくこのまま味方の砦を経由して、全員で戦場へいく」と命じ、笠寺の東の細い畦を苦労して進軍した。
まずは愛智郡の内丹下の砦に着き、信長は、水野帯刀、山田海老之丞、拓殖玄蕃、眞木與十郎、同じく宗四郎、伴十左衛門に砦から出て軍に加わらせ、同郡善照寺の砦では佐久間左京を先陣に加えさせたので、砦の東の狭間で並ぶと3千人ほどなのに、5千人のように見えた。
一行は、同郡鳴海宿と知多郡植松の間を駆けていくときに、林佐渡通勝、柴田権六勝家、毛利新助がそろって、「このまま行くと、両サイドに深い田のある狭い道を通るので、敵にこちらの勢力が少ないのを見通されて負けてしまう」と進言した。しかし、信長は耳を貸さず、中島の砦まで行き梶川平左衛門も軍に加えさせた。
ある者が、「自分が探ったところでは、今川の大軍は全て出撃してしまって、本陣は手薄になっている。我々は後ろの山影からに本陣を急襲して一挙に勝負を決するのがよい」と進言したのを信長は聴いて、例の大声で、「それはいい考えだ」と叫んだ。彼らは旗を隠して山陰を密かに桶狭間に到着した。
それにさきだち、信長の先鋒として熱田へ兵を進めた佐々木隼人、千秋四郎など200あまりは、信長の旗を見てから山際に隠れた駿河勢に突撃した。しかし、両人はじめ岩室長門など54人が戦死してしまった。前田犬千代利家(当時18歳)毛利、河内秀頼、森十助、安良彌太郎、魚住隼人らは敵の首を持って信長の旗本へ赴いた。
一方、駿河の先鋒が最初に討ち取った岩室、千秋の首を桶狭間の田楽ヶ窪の義元の陣所に届けたところ、義元は大いに喜んで「織田の勢力は少ないので恐れるに足らず」といって、近辺の寺や神社が差し入れた酒や肴で部下たちと酒盛りをした。
そのころ天候が急変してにわか雨が降り出し、砂塵が吹き荒れ雷が鳴り響き、沓掛の上の山では木が倒れるほどだったので、義元らは風雨を凌いでいたので信長勢が迫ってくる物音に気付かなかった。
信長は雨が止むのを待って、森三左衛門可成の指揮で数10騎をそろえてまっしぐらに敵陣を襲った。駿河勢は慌てふためいて火事か喧嘩か、それとも謀反が起きたのかと総崩れになった。
一番乗りは水野太郎作清久(後の左近)だった。義元の網代興乗がいるのを信長が見て、これは敵の本陣に間違いないと、午後2時ごろ東へ追撃した。
義元は300騎程で逃げたが、4~5度、戻って来ては応戦したが、次第に味方の兵が命を落として、ついには50騎余りになってしまった。しかし、義元は勇猛で、味方の指揮をとり、兵を励まして戦っていた。服部小兵太が義元を槍で突くと、義元は「松倉郷の名刀」を抜き小兵太の膝をを斬り小兵太はしりもちをついた。その時毛利新助が義元に組み付いて義元が下になったが、彼は新助の人差し指を噛み切った。しかし、新助は遂に義元の首を取り、「大左文字の太刀」と「松倉郷の刀」の両方を分捕った。
義元享年42歳だった。後陣から山田新右衛門が走ってきて戦死した。
その外、蒲原宮内少輔氏政(義元の叔父)、久能半内氏忠(義元の甥)、浅井小四郎政敏(義元の妹婿)、三浦左馬助義就(駿河の旗頭)、庵原美作守元政(旗奉行)、吉田武蔵守氏好(軍奉行)、葛山播磨守長嘉(後陣の旗頭)、同安房守元清、江尻民部親良(今川一族)、伊豆権平元利(槍奉行)、岡部甲斐守長定(左備侍大将)、藤枝伊賀守氏秋(前備侍大将)、朝比奈主計輔秀詮(先陣大将)、斉藤掃部助利澄庵、原右近忠春、同将監忠縁、同彦次郎忠良、牟礼主水泰慶、富塚修理亮元繋、伊井信濃守直盛、四宮右衛門佐光匡、温井内臓助実雅、山比美作守正信、石川新左衛門康盛、関口越中守親将、島田左京進将近、飯尾豊前守顕茲、澤田長門守忠頼、岡崎十兵衛忠実、ニ和田雲平光範、金井主馬助忠宗、平山千之丞為行、長瀬吉兵衛長行、平川左兵衛秋弘、福平主税忠重、松井五郎八宗信、富永伯耆、そして徳川衆の使いとして来ていた、松平摂津守維信、松平兵部親将、長澤の松平上野守政忠、弟五郎兵衛忠良、瀧脇の松平喜平次、加藤甚五兵衛景秀、西江織助俊雄をはじめ、583人の兵士と2千500(または3千807)の首を織田方に取られてしまった。
熱田へ向かった軍勢も、後陣の瀬名や朝比奈ら全て沓掛まで退却しそのまま逃走した。(信長は勝どきを上げて、夕方に凱旋した)
〇大高の城には薄暗くなった頃に義元の戦死の一報が届いた。この城にたまたま来ていた駿河の兵たちも全て逃亡したという連絡もあった。
元康の家来たちも、「我らもここに孤立してしまうので早く全軍を岡崎に帰還してはどうか」と進言した。元康は「戦場では嘘の情報が多いので、もしそれを信じて万が一嘘だったときには世間で非難される。ここはしばらく待って真偽を糺してからにしよう」と無理に動こうとはしなかった。
そこへ、三河碧海郡刈屋の城主、水野下野守信元から浅井六之助道忠が使いとして来て、義元の戦死の報と、「明日信長が攻めて来るので、夜中に城を離れて岡崎に帰るように」との連絡を伝えた。
元康は、「野州は叔父とはいえ織田方だから必ずしも信じてよいとはいえない、まず、道忠と捕らえてよく真実を確かめた上で帰そう」と命じた。
その時、戦場へ探査に出していた使者が帰ってきて、「今川の本陣は静寂で、死骸は東へ運ばれているので、義元の敗北は疑いない。直ぐに全員を退却させるべきだ」と進言した。
元康は、「闇夜では退く道に迷って混乱するので、月が出るまでは待とう」と落ち着いていた。そうして、六之助を呼んで、「お前は道案内をしてくれれば褒美を遣わす」といった。
当時、岡崎の重臣、酒井将監忠尚、同じく左衛門尉忠次、桜井の松平監物家次は、もう一度義元の方に擦り寄って元康を離れていたので、元康の周りには僅か50騎余りと後を守る本多百助信俊ら30騎ほどしかいなかった。
元康は、この敵国から兵を退却させる道筋を知るために、騎兵を歩兵の前に進ませ10町程進んで松明を点させ、歩兵には火を持たせずに「この火を目標にして進め」と命じた。そうして、雨が上がって空がようやく晴れて月が出てきたのを待って、本多彦八郎忠次の陣代の本多修理を大高の城に残して、静かに兵を移動させた。
地下人が行く手を阻もうとするので、本多百助が何回も馬を還して矢を放ち、敵を射た。浅井道忠は馬上で松明を灯して先導した。
三河の池鯉鮒の宿では、水野の兵が元康らを襲撃してきた。浅井が前に出て、「水野下野守の使者の浅井六之助だ」というと、敵はすぐに退却した。
大久保五郎右衛門はただ1騎でしんがりを務め、1人の歩兵も散らすことが無かった。
碧海郡今村に着いた元康は浅井を呼んで暇を与え彼の苦労に感謝して、自分の扇を半分に分けて贈った。そのために扇の骨が6本の扇が道忠から代々伝えられた。そこで今の幕府に勤めている末裔まで、「六本骨の扇」を家紋としている。(その扇には達磨の絵が描かれ骨は朱色に塗られたという。道忠の長男は雁兵衛といい、二男は浅井伝蔵の祖である)
〇ある話では、山田半六を頭とする刈屋あたりの一揆衆が池鯉鮒に押し寄せ元康の行く手を阻んだ。
半六は馬を躍らせ名前を名乗り、「駿河の負兵は1人も通さないぞ」と叫んだ。浅井道忠は彼と懇意だったので駆けてきて、「自分は信元の命で桶狭間に出てきて戦ってきた。そして今は三河勢が敗走するのを撃とうとしているのだ、それを間違って自分を傷つけてはならん」と怒鳴ると、半六は道を開け一揆を静まらせて碧海郡今村まで送ったという話もある。
〇また、元康が大高から岡崎へ帰るとき、三河碧海郡山田村で、郷主、都筑又兵衛正晴の家に泊まり、翌日直ぐに又兵衛と一緒に大樹寺を訪れたという話もある。
20日 元康は岡崎へ帰還したが、今川家への礼を失さないために城には入らず、大樹寺に3日ほど滞在した。これは元康がかねてからの今川との約束を守ってきた証で、世間もこれを手本にすべきだ。
22日 本多修理は元康が大樹寺に到着したことを聞いて、大高の城を脱出して岡崎に帰還した。元康は褒美として刀と陣羽織を贈り、浅井道忠には100貫の領地を与えた。
〇この日、元康は服部左京、渥美太郎兵衛友勝を呼んで、今回の働きを感謝し、左京には刀、太郎兵衛には岡崎の領地、200石を与え、両人に感謝状を贈った。今村勝長にも領地を与えた。
〇『渥美家伝』では、友勝は御家人となって毎日元康の傍で働いた。年始の儀式である謡い始めには、元康の身内の末席に座って、食事の裾分けをしてもらったり、作戦会議にも加わったりし、簾中(築山殿)や若君(三郎信康)もたびたび渥美の館へ訪れた。彼は知行を500石増やしてもらった。
〇『服部家伝』では、権太夫政光は以前伊豆を離れて尾張の家来になったが、大高へ食料を元康に補給した、この功績によって後日岡崎の御家人になり、やがて、遠州の庄で領地を与えられた。(多分この人は左京の一族だろう)
23日 元康は松平親俊に、岡崎の城の本丸の守衛、三浦と飯尾、二の丸の守衛、岡部に義元の戦死を伝えさせた。
今川衆は義元の戦死の報を聞いてすっかり力を落とし、本丸と二の丸を棄てて駿河へ逃げ帰り、岡崎城では三の丸の徳川の家来が残るだけになった。元康はこうなれば拾い物だと、岡崎城へ帰還した。
そうすると、親族や譜代の衆が雲霞のように集まってきた。「元康は6歳でこの城から出て尾張に囚われ、さらに駿河へ幽閉され、今日まで14年間も大変苦労をしたので人々の苦労というものを周知している。また、もともと才気がある人なのですぐに頭領になるだろう」と、皆大喜びをして大いに支えて行こうと意気が高まった。
尾張愛智、春日井、知多の三つの郡の内、今川方の城を守っていたものは全て逃げてしまったが、鳴海の城だけは、岡部五郎兵衛眞幸が20日以来信長勢と戦って城を守った。今川の老臣が手紙を送って、城を明け渡すようにと伝えたが断った。これを聞いた信長は感心して和解した。そして、彼は岡部の希望を入れて10人の僧侶に義元の首を持たせ、浮屠(*僧)権阿彌と一緒に鳴海に送ることによって、ようやくこの城を手に入れた。
岡部は義元の首を手に入れ鳴海より駿河へ帰ろうと三河に入ったとき、家来に向っていった。「主君の義元が亡くなってしまい、自分は篭城していた甲斐もなく駿河へ帰るのは力が尽きて堕ちていくようなものだ。敵方は今戦勝気分で兵を収めているようなので、これに乗じて敵の城を一つ取って、駿河へ帰る面目を保とう」
そこで彼は刺客を放って三河の刈屋の敵の城を窺った。刈屋の城主水野信元は尾張の小川の城にいた。彼の弟の藤九郎信近は仮屋の城下の熊村に愛妾がいて、毎晩夜這いをしていることを聞きつけたので、伊賀の服部の忍びを夜に浜手にまわして熊村の堀をたどって場内に忍び込ませて火を放ったところ、予想通りうまくことが運び、城内の4~50人だけでなく水野信近も即死させた。
ちょうど信元の家来の牛田玄蕃が城下にいて現場に駆けつけ、岡部の忍び30人ほどを捕まえて、信近の首を取り返し、残党を城外へ追い出した。
信近の兄の信元も小川より駆けつけてきたので、岡部はもう城を攻めることができず駿河へ帰った。義元の長男氏眞は眞幸の働きに感謝して感謝状を贈った。世の人も岡部を賞賛した。(後の丹波長○、武田信玄の家来となり、評判を落とした)
三河の勢力は元康方についたが、尾張へ秋波を送るものもいて、信長が勢力を増すにつれて徐々に織田方となって城に立て篭もった。
元康は、加茂郡擧母梅ヶ坪の要塞を攻撃した。また同郡の廣瀬も攻めた。城主三宅右衛門太夫は拂楚坂に兵を出して防戦した。味方も争って城を攻撃した。城兵は高いところから迎え撃つ時に、足立金彌は三宅の家来の林長次の銃弾に当たって戦死した。味方の先鋒が負けそうになったとき、元康は自分で兵を指揮して防戦した。大森與八郎は突撃して敵兵が敗れると、味方は追撃して城下まで進み、勝どきを上げて岡崎に帰還した。
元康は今度は尾張の愛智郡沓掛の城を攻撃し、城下の門を破って火を放ち帰ったが、清州の援軍が追撃してきて非常に強力だった。しかし、大久保新八郎が忠俊の後を守って元康軍を助けた。
〇この時大久保一族は大活躍したのだが、残念なことに元康には伝えられなかったという話がある。
6月小
18日 元康は三河の刈屋に出撃し、叔父の水野下野守信元の軍勢と横根村石ヶ瀬で交戦した。
藤井の松平勘四郎信一(後の伊豆守)、松井左近忠次(後の松平、周防守)、石川新九郎、杉浦八十郎鎮榮(八郎五郎鎮負の弟)、鳥居四郎左衛門信元(信廣ともいう)、大原左近右衛門、矢田作十郎、蜂谷半之丞貞次、大久保新八郎忠俊、同次右衛門忠佐、高木九助廣正(後の筑後守正次)、大田甚四郎吉勝(後の大膳夫)らが戦闘に参加した。
敵方の水野藤十郎が最初に槍をあわせ、兄の藤次郎重次に敵の首を取らせた。次に、水野勝助、高木善次郎清秀、矢田伝一郎、梶川五左衛門秀盛、清水権之助正吉、久米金左衛門、丹羽彦右衛門、神谷新七郎正次らが突撃して奮戦した。
水野側の鉄砲の弾が松井忠次の目をかすったので、忠次が怒って追っかけその敵を討ち取った。大久保喜六郎忠豊、坂部又十郎正家らは敵の首を取った。大岡助七郎忠次らは戦死した。筧平三郎重成は負傷しながらも敵の首を取った。日が沈んだので両軍は兵を収めた。
19日 元康軍は再び、刈屋の城外18町あたりで水野信元勢と交戦した。
大久保五郎右衛門忠勝、同じく七郎右衛門忠世、同じく喜六郎忠豊、小笠原新九郎安元(後の康元)、杉浦八十郎鎮榮、村越平三郎、石川新九郎、大田甚四郎吉勝(一代目善太夫)が戦って、薄着浦、村越は戦死した。矢田伝一郎が最初に突進して、瀧見彌平次、水野藤次郎重次、同藤十郎忠重、久米金左衛門、鰐部鮫之助はよく戦った。高木甚太郎清方によって、こちらの成瀬新太郎は首を取られた。松平太郎左衛門由重、三郎次郎親俊は負傷した。
余りの暑さに耐えられなくて、敵味方ともに退いた。
7月大
9日 元康は、山中法蔵寺へ規則を制定した。(*注:筆者が底本とした天明版が右側、天保版が左です。詳しくはこちらを参照ください)
8月小
朔日 元康は、筧、坂部らに、石ヶ瀬の戦功に対して感謝状を与えた。(両方とも同じ文章だったという)
〇この月に、元康は再び寺部、誉母の城を攻撃した。設楽郡の山中医王寺の砦も襲った。久松佐渡守俊勝が一番乗りした。敵が彼の肩を突いたので、彼は怒ってその槍の柄を切り折り砦に入って火を放った。そこを味方が多数乗り込んで城を落とした。
元康の勇ましい有様に、西三河の勢力の多くは彼の下に戻ってきた。
元康は勢力も結集して、東三河を押えるために出撃しようとした。東三河は今川の領地である。そこで家来は今目の前には織田の強敵もいるし、元康が東三河を押えると、その後で今川が復讐に来るだろうから止めてほしいと進言した。
元康は、「氏眞は弱虫だ、何を恐れているのか。今東三河で自分に歯向う砦を落として家来たちに領土を与えなかったなら、いつ徳川が大成出来るというのか」と諸臣を説得したので、彼らも承服した。
そうして、八名郡、長澤、鳥屋根の城主、糟屋善兵衛を攻めるために中山に砦を築いて、藤井の松平勘四郎信一に守らせた。鳥屋根へは今川からも援軍として小原藤十郎がきた
糟屋と小原は何度か兵を出して中山の附城を攻めたが、松平信一が奮戦して防ぎ、鳥根の城あたまで糟屋勢を押し込んだ。
ある日、元康は松平源七郎康忠を先鋒として城を攻めさせた。一方、小原藤十郎は魁として城から突撃してきた。渡邊半蔵守綱一は一番槍として戦い、敵を組討にした。榊原彌平兵衛忠政は一段から抜け出て戦うこと数回にわたった。元康は左右を眺めて、「あの激しく戦っているのは誰か」と尋ねた。あれは忠政だというので、その勇敢さを褒めて隼之助と命名した。侍としては名誉なことである。(隼は鷹の鳥を取るのが素早いことに因んでいる)
元康は、梅ヶ坪、廣瀬、誉母の城へも何度も出兵し、この年、その数50回を数えた。それで家来たちも昼夜休まるときがなく、武器や馬具を離さず戦いに挑んで苦労したということである。
ある話では、この年廣瀬、高橋の城主、三宅右衛門太夫は勢いに任せて城を出撃して、元康軍と死闘を繰り広げた。そして、伊賀より来ていた服部党を攻めて、市平保俊(22歳)をはじめ、一族郎党53人が戦死した。しかし、保俊の11男の岡久左衛門は右衛門太夫を討ち取り、城は陥落した。ここで、元康は三宅についていた地元の家来70人ほどを釈放して本多左衛門重次の家来にした。この多くは鈴木党で、これを高橋衆という。後年、彼らは本多佐渡守正信と同上野介正純の家来となり、後に彼らの子孫は幕府に近い関係者となった。
武徳編年集成 巻4 終
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