桶狭間の戦い
投稿日 : 2021.05.26
元康(*家康)は今川義元の家来として岡崎衆を率いて尾張勢との戦いに参加しました。岡崎勢の目的は失地の奪回にありましたが、今川の目的は尾張への勢力拡大以上にもくろんだことがあったのでしょうか?
永禄2年(1559)2月に気になる条が『江源武鑑』にみつかります。
14日、駿河の今川義元から使節が来た。来月に上洛するつもりだという。屋形は上洛させないと返事した。今川家は今年の正月来、尾張の信長とは二度も三河と尾張の国境で合戦したようである。(江源武鑑)
高敦によれば、同年3月、
朔日 信長は千余りの兵で尾張の春日井郡科野城(瀬戸市上品野)を攻撃した。義元の命令で元康の家来、藤井の松平勘四郎信一(後の伊豆守)は城番として守り通した。
3日 元康は駿府より兵を率いて岡崎に立ち寄り、加茂郡寺部、擧母、広瀬、梅が坪の敵の城を落として岡崎の領地とした。
次の地図は有名な桶狭間の戦に至る今川と織田との攻防の舞台を、グーグルの航空写真に書き込んだものです。
高敦は今川義元と織田信長の当時の力関係について次のように述べています。
この年、今川義元の国は繁栄して軍隊も強く、甲斐の武田、相模の北条を服従させて姻戚関係をもったので、周辺の国々は恐れてビクビクしていた。また、織田一族を信長に叛くようにそそのかして、尾張を征服しようとしていた。
一方、信長は16歳という若さながらこの11ヶ月の間に次々と敵を殲滅してきたものの、尾張の知多、愛智、春日井の三つの郡には今川の支配地があった。
義元は天文以来、愛智郡鳴海の城には岡部五郎兵衛眞幸、笠寺の砦には葛山備中、三浦左馬助義就、飯尾豊前顕茲(致實の父)そして浅井小四郎政敏を、又、知多郡大高と愛智郡沓懸の城には鵜殿三郎長持を配置し、春日井郡の科野には徳川衆を配して悠然としていた。
そんな状況だったので、「義元はやがて尾張を滅ぼして美濃や近江を押え、その勢いで京都へ登って天下を取ろうと準備をしているに違いない」という噂を聞いた信長は、ありうる話だと愛智郡と知多郡で今川の進出を阻止するために、中島、善照寺、鷲津、丸根、川下などの要地に城を築いて兵を配した。しかし、これらの城の造りは粗雑で兵も少なく、今川の大軍には勝ち目がなかった。この時期、織田家は存亡の危機に置かれていたといってよいだろう。
永禄3年(1560)正月、
18日 (正親町天皇の)即位は27日に延期されたと3人の傳奏から連絡を受けた。(言継卿記)
27日 準備で多忙。即位式が午後から始まった。傳奏が3人出てくるのは今回初めてである。不可説 々々々。警護は三好修理太夫長慶が務めた。(言継卿記)
27日 正親町天皇即位、毛利元就が費用を負担した。(浅井日記)
27日 即位の次第などいろいろ多いので日記には書ききれない。(江源武鑑)
一方、高敦は2月の記事には、
27日 天皇の即位式が行われた。即位は一昨年であるが当時朝廷は即位式の費用がまかなえず遅れていた。今回行われたのは毛利右馬頭と大江元就が費用を負担したからである。⦅これによって、元就は従三位に叙し、大膳太夫を任じられ、菊と桐の紋を賜った。彼は死後に三品を贈られた⦆。
とあります。月が違っているが恐らくこれは木活字版の間違いでしょう。
さて、この年の5月には桶狭間の戦いがありました。興味深い条が『浅井日記』に見つかります。
今川義元が駿河から出撃して遠州と三河を従わせて尾張に攻め込もうとした。この時織田弾正忠信長は援兵を浅井に乞うた。浅井備前守長政を(援兵として)出すべきだと家来たちが進言したにもかかわらず、佐々木管領義秀は近江が不安定になる、としてやめさせ、代わりに甲賀の池田と前田の一族を派遣した。(浅井日記)
この事情は、
7日 尾張の織田上総介信長から使節が来て、その手紙によれば駿河の今川義元が数万の騎兵で近日中に上洛するらしい。信長勢は防ぎたいが微力なので加勢してもらえば幸いであるとあった。(江源武鑑)
8日 尾張へ援軍を向かわせた。後藤但馬守は、尾張へは前田右馬頭と池田庄三郎を行かせるのがいいと提言した。屋形はそれを受け入れて、2人に自分の手で金の采配を与え、甲賀の7人衆(漫画にはあるが、実在したかどうかは?)を添えて、翌日総勢2千3百騎は近江を発って尾張へ向かった。(江源武鑑)
からもある程度推測できます。ただ、この前田右馬頭が実在人物かどうかはよくわかりませんでした。また、池田庄三郎としては『佐々木南北諸士帳』 によれば甲賀の池田城に池田庄三郎信輝という実在の人物のようですが、この人かどうかも不明です。
一方、高敦によれば、今川勢の方は、
10日 今川治部大輔義元は、駿河、遠州、三河の兵4万を率いて駿府を出陣した。
とあります。一方、
12日、尾張へ向かった援軍の大将の前田と池田から飛脚が来て次の連絡があった。(江源武鑑)
とあり、その報告の仔細が掲載されています。それによれば、
「8日と9日の間に今川義元は上洛に向けて、三河の吉田や岡崎まで進軍して辺りを放火した。そして今日、三河と尾張の国境へ着いて陣を張ったもようである。近日中に織田家は三河へ出撃して防戦する予定で、今川の上洛を防ぐために織田家の旗頭がそれぞれに陣を敷いたことを報告する。その配備は次の通りである。
丹家城には、水野帯刀、山口海老丞、柘植玄蕃允この軍勢合わせて三百四十三騎、
善照寺には、佐久間右衛門尉、同左京助 この軍勢合わせて四百五十騎、
中嶋城には、梶川平左衛門尉、澤田右近助この軍勢合わせて二百六十騎、
丸根城には、佐久間大学助、山田藤九郎 この軍勢合わせて百五十騎、
鷲津城には、 飯尾近江守、同隠岐守、織田玄蕃允この軍勢合わせて五百二十騎
それぞれの勢力の数は加勢分も加えたものである。中村と鳴海の両城には山口左馬助とその子の半内を配属したが、この両者が寝返ったために、これらの城は今川の手に落ちたとの連絡を受けた」
五月十一日卯上刻 池田庄三郎、前田右馬頭、軍奉行 乾兵庫介
馬淵伊賀守殿、目加多摂津守殿、後藤但馬守殿
更に、
14日 尾張から飛脚が来て池田と前田からの報告が届いた。(江源武鑑)
それによれば、
「本日13日に今川義元は尾張と三河の境まで進軍して、大高と沓掛の城を攻め落とした。その他今川は笠寺に葛山播磨守ら8千騎を配置した。織田側は相談して尾張へ引き入れてから戦うことになったそうである」
五月十三日正午 池田庄三郎、前田右馬頭、軍奉行 乾兵庫介、
馬淵伊賀守殿、目加多摂津守殿、後藤但馬守殿
とあります。高敦は次のように記しています。
19日 明け方に元康は今川の一員として丸根城へ出撃した。(中略) 敵は敗走したが、これを追撃していた佐久間大学は鉄砲に撃たれて戦死し、彼の家来も多数戦死した。その間に、贄掃部氏信が一番乗りし、松平甚太郎の家来の左右田興平らが乗り込んで丸根城を落とした。
また、
丸根の城攻めと時を同じくして、今川方の先鋒の朝比奈備守泰能は、鷲津の城を猛攻撃して陥落させた。城の飯尾近江守定宗、織田玄蕃允信昌以下、大半の武将は戦死し、城は焦土となった。義元は、すこし前に不吉な気配があったが気に留めず、愛智郡桶狭間を本陣として兵を知多郡へ出撃させ、朝方には尾張方の丸根と鷲津の城を陥落させて城主を討ち取った。義元は、元康と朝比奈の働きを褒め、「大高の城は重要なので徳川が交代して入り、城主の鵜殿長持は長く篭城して疲れているからしばらく休むように」、と指示した。そこで元康は大高の城へ入った。三河の今村彦兵衛勝長と渥美太郎兵衛友勝が兵糧を差し入れた。又、知多郡の服部左京は伊勢の長島の一向宗と通じて今川方だったので、彼らは軍船数十隻で大高城まで来て糧米を搬入した。
織田上総介信長(当時26歳)は以前から鳴海の城に来て一戦を交えようとしていた。長臣の林佐渡通勝は、「敵は4万以上もいる、味方の勢力は僅かなので野戦をやってはいけない、清州の城を守るべきだ」、と進言した。それに先立ち18日の夜に丸根の佐久間方から、「敵は大高に襲来した」という連絡が来たが、信長は幹部を集めて酒宴をして作戦会議まではしなかった。猿楽師の宮福太夫が羅城門の舞曲の一節、「兵の交わり頼みある中の酒宴かな」と謡えば、信長は大喜びして黄金を与えた。
一方、
20日に尾張から飛脚が届いて、17日に今川義元は尾張の愛智郡沓懸の城で陣を敷き、18日の夕方、義元は大高城へ兵糧を運び込んだ。今朝は鷲津と丸根を攻めると決めたと佐久間から織田家に連絡があったので、織田家は出陣した。近江の援軍は右の備えを依頼された。(江源武鑑)
さて、上の報告の中に、「18日の夕方、今川義元は大高城へ兵糧を運び込んだ」とあります。これは高敦の記した、伊勢の長島からの船による糧米の搬入を指すと推測できます。一方、高敦は前年の永禄2年(1559)5月に、義元の命令で、元康ら岡﨑勢が尾張勢に取り囲まれた大高城に兵糧を搬入するという危険な役を担わされ、元康の賢いアイデアによって無血でうまく成し遂げたと記しています。つまり奇妙なことにこれらの出来事はちょうど1年違いで同じ月にあったことになっているわけです。しかも、この元康の功績が世間に広がって、それを聞いた信長も将来元康と組みたいと思う様になったとか書かれています。ところが、先の『江源武鑑』の12日と14日の報告によれば、大高城は織田方の城となっているので、前の年に元康らがこの城へ兵糧を苦労して運び込んだという話は疑わしく、『江源武鑑』に書かれた報告書の内容の方が自然で事実に近いのではないでしょうか? 同様な疑問がもう一つあります。
高敦によれば、永禄3年(1560)5月の記事に、
17日 義元は三河の碧海郡池鯉鮒(現在の知立)に着いた。元康は先鋒として岡崎からここに来た。
これに続いて、興味深い話を記しています。
18日 元康は尾張の知多阿古屋(坂部城)にすむ久松佐渡守、菅原俊勝の家に泊まり、母に対面した。俊勝にも面会した。
この話は元康が生まれてすぐに母、於大と生き別れ、長い人質の時代を経て初めてこの時再会したという感動的な話として伝わっています。そして、
19日 明け方に元康は今川の魁として丸根城へ向かった。
次の図は元康のこの3日間の行動の距離を推測するための地図です。黄色の横線の長さがおよそ10kmに相当します。
元康は17日に義元と共に池鯉鮒にいました。そして次の18日に阿古屋へ行き一泊し、翌朝早く阿古屋から丸根城へ向かったそうです。池鯉鮒から阿古屋までは直線距離で13kmほど、阿古屋から丸根までは14kmほどですから、一応物理的には可能な行程ではあります。
しかし、今川の家来にすぎない元康が母に会いに行くといっても、彼女は敵方の水野信元の妹です。彼女の住む城へ元康が行くということに、これから尾張と戦おうとしている義元が寛容であるとは思えないのです。元康がそれでも行けたとすると、それはかなり危険な隠密行動だったと思えます。また、於大は竹千代と生き別れていても常に彼のためにセーフティーネットを張って、自分の関係者を通じて駿府や岡崎の協力者たちと連絡を取っていたことは十分ありますので、この戦の最中にわざわざ元康に危険を負わしてまで会う必要はなさそうです。むしろ母ならば息子が会いたいといって来ても思いとどまるように諭すのが普通ではないかと筆者には思えました。そして、同じ日の高敦の記述では、
この日(18日)、丸根城の佐久間大学助盛重は、「明日今川の大軍が押し寄せてくるという。こちらはそれに耐える備えはできないので直ぐ援軍を送ってほしい」、と清州へ要請した。
尾張側は義元の行動を把握しています。したがって、その先発隊として元康たちが来ていることも、織田方は当然承知し、於大にも兄の水野信元にも伝わっていたはずです。後で高敦が記しているように、岡狭間の戦いで義元が討たれたのち、元康が岡崎へ撤退する途中で水野勢に襲われそうになったとあります。こう考えると、元康が於大に会うのはあらかじめ十分に練られた信元の家来も知らない秘密計画の一部で、義元の動きも全て於大を通じて織田側へ筒抜けになったとも考えられます。また、高敦の記述が事実でないとすれば、この感動的な母との再会の話は、高敦の原本にはなく、木活字版で加筆されている可能性もあります。
21日 午後、尾張から飛脚が来て、池田と前田による19日と20日の合戦の報告が届いた。(江源武鑑)
19日の早朝、織田家は清州城を出陣した。青州の旗本勢は千2百あまり、左の備えは近江の加勢で前田右馬頭と池田庄三郎、右の備えは織田大隅守などである。最初の交戦で、佐々隼人正と千秋四郎太夫が死亡、夕方には岩室長門守が死亡した。味方の損失は830騎である。朝には味方の鷲津と丸根の城が陥落した。織田勢が負けたので、今夜は今川の陣取っている山の後ろへ回って夜討ちを掛けるように連絡され、皆が了承した。19日の深夜義元の本陣へ切り込んで大勝利を得た。今川義元を討ち取った。織田の近臣の服部小平太と毛利新介が義元を討ったが、2人が互いに手柄のクレジットを争ったので、織田家は証文をどちらにも出さなかった。織田家の近習の下方九郎左衛門が義元の同胞の林阿弥を拿捕し、取った首を見せて名前を確認させた。(江源武鑑)
高敦の記述に戻ると、
一方、駿河陣営では、先鋒が最初に討ち取った岩室、千秋らの首を桶狭間の田楽ヶ窪の義元の陣所に届けたところ、義元は大いに喜んで、「織田の勢力は少ないので恐れるに足らず」、といって、近辺の寺や神社が差し入れた酒や肴で部下たちと酒盛りをした。
天候が急変してにわか雨が降り出し、砂塵が吹き荒れ雷が鳴り響き、沓掛の上の山では木が倒れるほどで義元らは風雨を凌いでいたので信長勢が迫ってくる物音に気付かなかった。信長は雨が止むのを待って、森三左衛門可成の指揮で数10騎をそろえてまっしぐらに敵陣を襲った。駿河勢は慌てふためいて失火か喧嘩か、それとも謀反が起きたのかと総崩れになった。一番乗りは水野太郎作清久(後の左近)だった。義元側の網代興乗がいるのを信長が見て、これは敵の本陣に間違いないと、午後に東へ向かって追撃した。
服部小兵太が義元を槍で突くと、義元は「松倉郷の名刀」を抜き小兵太の膝を斬り小兵太はしりもちをついた。その時毛利新助が義元に組み付いて義元が下になったが、彼は新助の人差し指を噛み切った。しかし、新助は遂に義元の首を取り、「大左文字の太刀」と「松倉郷の刀」の両方を分捕った。義元享年42歳だった。後陣から山田新右衛門が走ってきて戦死した。
と戦闘の状況が記されています。ここで高敦と『江源武鑑』では義元が殺された時間が違っています。ここでは高敦の話に沿って話を辿ってみましょう。
大高の城には薄暗くなった頃に義元の戦死の一報が届いた。この城にたまたま来ていた駿河の兵たちも全て逃亡したという連絡もあった。元康の家来たちも、「我らもここに孤立してしまうので早く全軍を岡崎に帰還してはどうか」と進言した。元康は「戦場では嘘の情報が多いので、もしそれを信じて万が一嘘だったときには世間で非難される。ここはしばらく待って真偽を糺してからにしよう」と無理に動こうとはしなかった。
そこへ、三河碧海郡刈屋の城主、水野下野守信元から浅井六之助道忠が使いとして来て、義元の戦死の報と、「明日信長が攻めて来るので、夜中に城を離れて岡崎に帰るように」、との連絡を伝えた。元康は、野州は叔父とはいえ織田方だから必ずしも信じてよいとはいえない、まず、道忠と捕らえてよく真実を確かめた上で引き取ろう、と命じた。その時、戦場へ探査に出していた使者が帰ってきて、「今川の本陣は静寂で、死骸は東へ運ばれているので、義元の敗北は疑いない。直ぐに全員を退却させるべきだ」、と進言した。
元康らは浅井六之助道忠を道案内に月明かりの下、岡崎へ撤退する道中の話を高敦は続けていますが、
三河の池鯉鮒の宿では、水野の兵が元康らを襲撃してきた。浅井が前に出て、水野下野守の使者の浅井六之助だというと、敵はすぐに退却した。
その後、彼らは岡崎城へ直接戻らず一旦大樹寺に泊って、
23日 元康は松平親俊に、岡崎の城の本丸の守衛、三浦と飯尾、二の丸の守衛、岡部に義元の戦死を伝えさせた。今川衆は義元の戦死の報を聞いてすっかり力を落とし、本丸と二の丸を棄てて駿河へ逃げ帰り、岡崎城では三の丸の徳川の家来が残るだけになった。元康はこうなれば拾い物だと岡崎城へ帰還した。
一方、
25日 尾張への援軍で出ていた前田右馬頭兼利が近江へ帰還した。織田家から丁重な礼状が届いた。(*近江から)派遣されていた池田庄三郎は織田家の家来になった。(江源武鑑)
ともありあます。又、6月4日には、尾張に加勢していた諸将に屋形から感謝状が贈られ、例として堀伊豆守に送られた観音寺城主義秀の判が押された感謝状が記載されています。
因みにこの戦いでの今川勢の犠牲者は、高敦によれば侍が583名、雑兵が2500名⦅または3807名⦆、『江源武鑑』では侍が583名、雑兵が3907名とあります。高敦の揚げている今川勢の武将の戦死者は37名です。また、『江源武鑑』に揚げられている林阿弥が身元を確認した武将は次の25名で、その内、
神原宮内少輔(義元叔父)、久野半内(義元甥)、浅井小四郎(義元妹婿)、
三浦左馬助(旗頭)、江原美作守(旗大将)、吉田武蔵守(軍奉行)、
葛山播磨守(後陣旗頭)、江尻民部少輔(義元一族)、伊豆権守(鑓大将義元師)、
岡部甲斐守(左備大将)、藤枝伊賀守(前備内)、嶋田左京進(義元近習)、
飯尾豊前守(尾州浪人)、澤田長門守(江州浪人)、岡崎十兵衛尉(義元近習)、
上和田雲平(義元小姓)、金井主馬介(甲州浪人)、平岩十之丞(義元近習)、平川左兵衛尉(江州浪人)、長瀬吉兵衛尉(平岩十丞兄)、福平主税介(伊豆北條浪人)は高敦の名簿と一致します。
しかし、阿部藤内左衛門尉(義元近習)、岡部五郎兵衛尉(近習頭)、乾安房守(旗頭内)、相良角内左衛門尉(近習内)は高敦のリストには見つからりません。なお、高敦はその他に16名の名前を記しています。
一方、高敦によれば、岡崎勢の戦死者は松平摂津守維信、松平兵部親将、長澤の松平上野守政忠、弟五郎兵衛忠良、瀧脇の松平喜平次、加藤甚五兵衛景秀、西江織助俊雄とあり、一方、『江源武鑑』によれば、近江の援兵の犠牲者は山田十兵衛尉、弓削左内、上月兵部と雑兵が37名、負傷者が272名とあります。このように両者に記された内容は概ね一致しているようです。
ここで、この桶狭間戦いで元康がこの戦いにどのように関与したのかを改めて見てみましょう。
確かに彼は今川の先発隊として働いたが、義元が討たれた現場にはいませんでした。そして義元が討たれた後、敵方の水野信元の使者による「明日信長が攻めて来るので、夜中に城を離れて岡崎に帰るように」との知らせがなければ、彼が大高城から脱出して岡崎へ帰還できたとは限りません。
本来ならば、岡崎勢は今川の残党として、元康ともども信長の軍勢に殲滅されてもおかしくなかったはずです。しかし、実際は助かった。ここに筆者やはり於大の影を感じるのは邪推でしょうか?
むしろ、竹千代をソフトの面で支えてきたのが母の於大と祖母の華陽院であったとすれば、この戦いで彼の命をハードの面で守ったのは於大の兄の水野信元で、その後ろに於大の意思があったのではないかと想像しました。 高敦は桶狭間の戦の経緯の中で、この事情を暗に書きたかったのではないでしょうか。
ところで最近の専門家の間では、「今川義元は本当に上洛して、天下を取ろうとしていたのか?」という問題について議論があったそうです。柴祐之氏による『織田氏との対立、松平氏の離反はなぜ起きたか』 によれば、
この頃の今川義元による尾張への軍事進攻の目的は、京都へ登って天下を取ることだったと一般には考えられているが、実際は尾張の鳴海地域の支配を確立するためだった。
とあります。また、同じ書物にある、木下聰氏の『「三河守任官」と尾張乱入は関係があるのか』によれば、
つまり、義元には全国への野心があったわけではなく、三河境を脅かす織田勢を討つことによって三河支配を安定させ、あわよくば尾張への勢力拡大を果たすことが第一であり、幕府や朝廷との関係などは二の次であるというのが、現段階で最も有力な義元の出陣目的だったとされています。
筆者がこの議論に立ち入るのは僭越ですが、この時期に義元が織田を滅ぼして上洛を狙っているだろうという噂を、信長や近江の諸将がかなり本気で気にしていたのはまんざら嘘ではないように感じました。なお、『言継卿記』は永禄3年の3月から5年の12月までが欠けているので、都からの情報はわかりませんでした。
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