徳川家康の長男、松平信康と母殺害事件の謎 

投稿日 : 2022.06.22


2022年歌舞伎座『6月大歌舞伎(6月2日から27日)の第二部で『信康』という出し物が公演されました。信康は徳川家康の長男で、後に信長の間接的な命令で家康自身が死に至らせたという悲劇のヒーローです。

この出し物のダイジェスト映像が松竹より公開されています。

この事件の実像について、『武徳編年集成』にはかなり立ち入った記述があります。徳川サイドにとってはあまりつまびらかにしたくないだろう事件でしょうが、その真相は史学的にも今なお謎のようで、最近の家康ブームに関係して、この真相を語るいろいろな説が出されています。高敦がこの事件をどう見ていたかはとても興味深いと思いました。何しろ家康は彼から見ると、多分ひい爺さんぐらいの世代の人ですから、関係者の子孫も多く生きていて、今とは違って生きた情報も多かったと推測できるからです。

『信康』についての高敦の記述は、次が最初です。

『永禄2年3月朔日 信長は千余りの兵で尾張春日井郡科野の城を攻撃した。(今川)義元の命令で元康(後の家康)の家来、藤井の松平勘四郎信一(後の伊豆守)は城番として守り通した。3日、織田の軍は今日まで昼夜を問わず科野の城を攻め続けて、死傷者が180人ほど出た。今夜は風雨が激しくて、信一は城外へ夜討ちのために出陣して大勝利を得た。寄せ手は54人が命を落とし、117人が負傷した。これを信一は元康に報告した。元康は喜び、義元からも信一に感謝状が来た。

元康は駿府より兵を率いて岡崎に立ち寄り、加茂郡寺部、擧母、広瀬、梅が坪の敵の城を落として岡崎の領地とした。恩賞の地を得た家臣たちは元康を賛美して、「清康の生まれ替わりだ」といったという。

また、加えて駿府の館では、元康の妻が男子を産み、三郎と命名された。後日、信康となる。

幕下の家臣たちは非常に喜んだ。この年の今川義元は国(*駿河)が栄えて軍隊も強く、甲斐の武田、相模の北条を服従させて姻戚関係を結んだので、周辺の国々は恐れてビクビクしていた。また、尾張の織田一族を信長に叛くようにそそのかして、尾張を征服しようとしていた』

永禄5年3月

(今川)氏眞が元康の正室(築山殿)と息子の三郎(後の信康)を殺害しようとしているという噂があった。

12月、ある話によれば、元康の正室は嫉妬深くて淫行があったという。しかし、元康には打つ手もなく彼女と離婚した。彼女は勢州へ落延びたが、後に京都へ行き、更に越前へ向かったという。(元亀の末に、三郎信康はしきりに父、元康に母を岡崎に戻すように頼んだ。そこで元康は岡崎城内に築山曲輪を彼女の住居とした。このために彼女は築山殿と呼ばれた)

永禄10年5月27日
織田信長は娘の徳姫を家康の嫡男、三郎信康の正室として岡崎に嫁がせた。信長は娘を佐久間右衛門尉信盛に送らせ、生駒八右衛門と中島與五郎を附けた。信康も徳姫も今年で9歳である。

元亀元年正月
家康は遠州見附(*磐田)の城へ出向いて三河と遠州の人夫にこの城を破壊させ、見附の西南に適地を選んで新しく居城を建設した。・・・完成の暁には岡崎の城を息子の信康に譲り、家康はこの城へ移る予定で名前も浜松城とした。

8月28日家康の宗子、三郎信康が元服した。12歳。織田信長の諱字をもらって『信康』とした。(天正7年故あって自害した)この祝賀として家康は今日と明日、浜松の城で観世左近太夫入道宗雪、同左近に命じて猿楽を催し、一般に公開した。

これに先立ち、高敦は、『永禄2年10月、信長の娘誕生、徳姫が誕生した。後年岡崎三郎信康の正室となるが、信康が自害した後は京都烏丸中御門に住んだ。(寛永13年(1636)5月10日、78歳で死去、大徳寺の塔中、総見院の天端寺に埋葬され、法諱は見星院香岩桂壽である)』とあります。

信康が故あって自害した? 何があったのでしょう。これが問題の謎です。

その本題に至るまでに、信康についてのいくつかのエピソードを高敦は記しています。

『天正2年正月8日朝、家康の子、於義丸が誕生した。ある話では、家康の侍女の於万が懐妊した。ある日のこと彼女は家康に無断で夜中に突然城から抜け出して伯母婿の本多半右衛門(老臣の豊後守廣孝)の家に住み込んだ。(伯母は家康の子供の頃からの付き人である)30日ほど経って、彼女は伯母の住む浜松城下の産見村で双子を生んだ。1人は早世したがもう1人は育った。(家康33歳、於万28歳)、その時慶伸という医者が付いていた。本多半右衛門は同じ姓の苗作左衛門重次にこの話を伝え、重次はこれを岡崎三郎信康に報告した。

すると信康は、「自分は弟が前から欲しかった、大事に育てるように」と本多にいった。重次は喜んでその子をすぐに引佐郡古美村の主、中村源左衛門入道喜楽に預け、その子の幼名を於義丸とした。

彼が3歳のときのこと(天正4年)家康が岡崎の城へ来る事があった。信康はあらかじめ家来に於義丸を連れて来させ、ふすまの陰から「父君」と呼ばせた。家康は状況を察した。信康は家康の帰り際に「自分にはかわいい弟がいてもう2、3歳になっている。ぜひ会って欲しい」と懇願した。家康は於義丸を抱いて膝に乗せ、本多重次に育てるように命じた。

後日、信康が自殺して後、家康は以前にも増して於義丸をかわいがり、天正12年には豊臣秀吉の養子として摂津の大坂に移った。秀吉は彼に1万石を贈り、秀の1字を与えて秀康とした。翌年には従4位下に叙された。左近近衛少将に任じられ、三河守を兼ねた(22歳)。同じく18年結城左衛門督晴朝の嫡子となって下野の結城城10万石を持ち、慶長5年には家康から越前一国をもらい、遂には中納言従3位に叙された。(この人は後の越前家の始祖である。於満の方は三河の池鯉鮒大明神の宮司、永見志麻の娘で、尾張の熱田神宮の宮司ともいわれる。志摩、後に大坂に住んで医業を仕事とし、村田意竹と号した)

天正4年8月、家康の子、三郎信康は勇敢な武将で名高かった。しかし、ここ数年彼の城、三河の岡崎あたりでは今様の踊りが流行り、人々がこれに夢中になっていた。信康はこれが好きで、衣装を飾って近隣からやってくる踊りを喜んで観た。ある時、踊りの衣装が粗末だったというので、彼が生まれつきの癇癪持ちだった癖が出て怒り出し、踊り手を射殺した。このためその後は、彼が観覧するときに(同様なことが重なったので)人々は彼の悪癖になれてしまった。かつて今川氏眞が踊りにのめりこんで間もなく家が滅びたので、その轍を踏むのも近いのではないかと徳川の御家人たちはため息をついていた。

天正7年6月
家康の正妻、築山殿は今川義元の姪で、義元一族の関口刑部少将親永の娘である。彼女には悪い性格があって嫉妬心が非常に強かった。家康はこれを嫌って伊勢と越前の間の地に追いやった。しかし、息子の三郎信康は母を気遣って家康に頼んで岡崎に連れ戻した。

信康の正室は信長の娘で、永禄10年に9歳で輿入れた。2人には2人の娘が生まれた。しかし、築山殿は男子が生まれないのを不服とした。また、彼女は、彼女の親が先に徳川と今川に叛いたために氏眞によって殺され、しかも、自分は家康の正室にもかかわらずこのような目に遭わされてきているのであれば、いっそのこと武田勝頼と組んで家康と信長を滅ぼし、彼を遠州と三河の守護にしようと、いつも考えていた。又彼女は減慶という唐人の医者と浮気をして、その上この医者を甲陽に通じさせた。

信康はそのようなことは知らなかったが、日ごろは勢いのままに乱暴で、踊り子の衣装が悪いといって撃ち殺したりしていた。ある時狩場で僧侶が呪い文を唱えて殺生をしていけないといっていたという告げ口をする者がいて、信康はこの言葉を信じてその僧侶を捕まえ馬の鞍に縛り付けて走らせてひき殺した。それで酒井と大久保らは眉をひそめた。又、信康の放蕩な振る舞いのために自然に夫婦仲も悪くなった上に、築山殿が甲陽へ通じているというので、妻は信康の罪を12か条にまとめて信長に訴えた。

徳川の棟梁、酒井忠次は家康の伯母婿である。信康の侍女に不宇という美人の誉の高い三十路の女がいて彼は彼女と恋に落ちた。そして織田家に媚を売っていた。信康の妻は不宇を密に忠次に通わせ、彼女に信康の酷さを打ち明けさせた。

一方、石川左衛門太夫康通は、前に家康に追い出された女を京都から迎えて妾としていた。忠次もこの例に習って不宇を自分の家に取り込んだ。

家康は内々にそのことを聞いていて喜んでいなかった。中でも信康は非常にこの状況を憤慨していたので、忠次は信康を殺そうと思うようになった。(忠次の女で、五井の松平外記伊昌の妻も不宇というので誤解のないように)1288322d676324c5ca7168a8af5fa58eb11257ef.jpg

16日 酒井忠次は、家康の使いとして安土に行き駿馬を信長に贈った。また、忠次と兵九郎信昌も良馬を贈った。

その時信長は忠次を別室へ連れて行き、信康の妻から贈ってきた12か条の件を尋ねた。忠次は10か条についてはその通りであると述べた。しかし、信長は残る2条の事は隠して忠次にいわなかった。そして、「信康の不仁で暴虐なことは家康も知っていることである。武勇に優れた男なので自分の将来のためにも、どこかに幽閉しておいても自分は困らないが、家康はこの件どのように思っているのか?」と尋ねた。

忠次は、「家康は、おっしゃるように彼を蟄居させて改心するのを待つのもいいが、強くて短気で孝行心がなければ、敵に回ってか謀反でも起こさないかと虎の尾を踏まないように気を使っている」と答えたという。

信長は「徳川家の老臣が10か条までを認め、家康も危険を感じている程の者ならば、考えを変えなければならない。家康は早く信康を殺すように」と命じた。忠次は承知して直ぐに浜松へ行った。信康は酒井が岡崎に来なかったことから彼の讒言を悟った。

忠次が信長の命令を家康に伝えて退席した後、家康は傍の家来に述べたという。「子供を憐れむのは誰でも皆同じだ、まして優れた器を持った子ならばなおさらだ。しかし、家次が10か条まで同意してしまったのでは信長が信康を殺せと勧めてくるのもありうることだ。信長としてはいちいち面倒なので、そう決めてしまったのだろう。自分は信長に恨みはない、敵といえば目の前の忠次だが、大敵を前にして信長を叛く訳にもいかない。やむなく殺す他ない」と。

すると、信康の家来の平岩七之助が進み出て、「信康を殺せば後で必ず後悔するだろう。自分、親吉が傍に居たものとして信康の非を諫められなかった罪として自分を殺して首を安土に送り、家康の家来には信康の罪は親吉にあるので罰したのだといって欲しい。家康には信康以外に嫡子がいないのだから、当面は捕らえておいて、許されるまで待つといえば、信長の怒りも薄れるだろう、一時も早く自分に暇を与えて信康の罪の償いをさせて欲しい」と訴えた。

家康は「お前がわびることはない、よく考えてくれ、自分も不幸にして優れた一人息子を殺すことは忍び難いので、これからいつも悲しむことになるだろう。しかし、お前の首を信長に送って、「三郎の罪を償うために老臣の左衛門尉を殺した」という嘘を重ねることは許されないだろう。今回の件は実に損な上の損、恥の上の恥だ」と涙を流して親吉の願いを認めなかった。

8月
1日 家康は信長の命令に応じて「信康を罰する」と信長に返事した。
3日 家康は岡崎に行き信康を大濱の郷に行かせた。
5日 信康は岡崎に行って家康に、「母が甲陽へ密に通じて近々、小山田高重と再婚するという話があったこと」などを自分が知らなかったと詫びた。しかし、家康は考えを変えず、信康は空しく雨の中を大濱に戻った。
9日 信康を大濱から遠州の堀江の城へ移した。
10日 三河の諸将を岡崎の城へ呼んで、信康の消息を尋ねないという誓約書を書かせ、信康を遠州の二股城に移して大久保七郎右衛門忠世に預けた。

〇伝わっている話では、「家康の真意は忠世に三郎を連れて辺境の山林に隠せ」ということだったが、忠世が「信康が生まれつき出来が悪く大物の器でないので徳川家の厄介者になるのを察して、そうしなかった」のか、「信康がいつもだらしなく功臣に対しても冷たいのを不満に思っていた為なのか」今では調べようもないが、信康の魂が祟るとすれば忠世に罪がなかったわけではない。大久保一族は前の代からそれほど家康に尽くしてきたわけではないので、そこに訳があるかもしれない。

〇別の話として、後年に家康が年幸若太夫義門の満仲の舞を鑑賞したとき、「昔は藤原伸光のような家来がいたが、最近はこういう家来はいないなあ」と涙を流した。これを聴いて酒井忠次は非常に赤面したという。あるとき福島左衛門太夫正則が家康に、「酒井忠次はお宅の家来だが、あまり厚遇されていないのはどういう訳か?」と尋ねた。家康は「忠次は自分の腹心の家来で戦に長けている。お前が忠次と仲がよいのであれば、親として自分の子を憐れむことはないのか?と彼に聞いてみよ」と答えた。正則はまずいことを尋ねてしまったとそれ以上は尋ねなかった。築山殿と信康の霊は忠次の家に長く祟ったという。

15日 浜松から服部半蔵正成は二股城に行き信康に家康の厳命を伝えた。信康は自殺した。享年21歳。遠州の住人、矢方山城通綱が「千子村正の刀」で介錯した。二股城に続く山で火葬し、遺骨を滝の上の松林の庵の傍に埋葬した。(法諱、勝雲院隆岩長越居士、家康は後にこの場所に清瀧寺を建て、近世ではこの寺に産敷村61石を付けた)

信康には2人の娘が居た。後年それぞれ小笠原兵部大輔秀政と木多美濃守忠政に嫁いだ。長臣の榊原七郎右衛門清政は悲しみのあまり禄を棄てて、弟の小平太康政の許で蟄居した。(慶長10年駿州の久能城5千石を贈られた。その子は若狭清定大内記照久である)

信康の付け人30騎は内藤彌次右衛門家長の組に入れられた。

加藤播磨景元、河澄又五郎(後、五郎左衛門)、石川陣四郎、糟屋作助、同作十郎、同十三郎、大岡孫太郎、安藤治右衛門定次(治右衛門正次の子)、松井茂兵衛、中根甚太郎、新美助六郎、渡邊加兵衛明綱、山口無右衛門、藤江小兵衛、松平清十郎(後、鈴木太郎左衛門、又七衛門)、原田次郎太夫、伴助左衛門、植田源助、野々山藤兵衛元政、鳥井亦兵衛、伊予山由右衛門(一二左衛門入道観休の父)、上田甚右衛門(内記の父)、原田彌之助(五太夫の子)、成瀬藤次郎、松平又十郎の25名は家康の命で家長に付属した。

米津三十郎、石川與次右衛門、石川八左衛門政次、林又兵衛、浅羽八十郎の5名は家長に付くのを不服として禄を棄てて逃げ出した。しかし、後に御家人となった。

〇ある話では、家康は信康の家来50名を石川数正につけ、10名ほどを平岩親吉につけた。石川数正が逃げた(*秀吉に付いた)後は、この50名の内30名を家長につけた。

以上がこの事件についての高敦の記述です。

歴史家でもない筆者が勝手に推論するのは僭越ですが、この事件は、信長が家康を支配するために、家康や側近の個人的な弱みを握って、信康や築山殿を殺すという計画を実施したものと考えれば、特に不自然ではないのではと感じました。そもそもこの計画は、信長が娘を信康の妻として潜入させるというアイデアから始まっていたのではないでしょうか? 当時の婚姻は政略結婚がほとんどですから、家康自身も信長も、その辺は案外ドライだったのかもしれません。

弱みのある役人を狙って為政者が利用し、汚れ役をさせた上で左遷したり自殺させたりする例は珍しくないようです。また、独裁者の最も恐れるのは味方の謀反や復讐ですから、信長はその芽を摘みたかったと考えていたのでしょう。それを進言した誰かがいそうな感じもしました。