ナタンソンの論文が書かれた背景

投稿日 : 2021.06.26


昨今の新型コロナウイルスの大流行によって、そこここで、おでこを小さな装置にかざして体温をチェックするのが普通になりました。この装置は、熱を持ったものが放射する光のスペクトルを表す理論公式を利用した温度計です。

この公式は、もともとは太陽光のスペクトルを解明するために、ドイツの物理学者マックス・プランクが1900年の論文で提案したもので、「放射公式」と呼ばれています。

このスペクトルは物体の温度を反映して最も強い光の波長が変化します。太陽光は太陽の表面の温度がおよそ摂氏6千度であること反映して、緑色の光がもっとも強くなっています。温度が下がると、一番強い光の波長が長くなっていきます。最近活発に噴火が続いているアイスランドの火山から流れ出る溶岩の色の変化から、それがよくわかります。

次の写真はYouTubeに多数載せられている動画の一場面をスマホで撮ったものですが、噴火口から出たばかりの溶岩は白く輝いています。しかし、流れ下るにしたがって次第に黄色から赤く連続的に変化しているのがわかります。これは溶岩の温度が下がっているからです。また表面では速く冷えるので、かさぶたのように固まりながら流れ黒く見えるものの、とてもさわれる温度ではありません。fa4beb3cd99db261c70e9512abeb6445b5666f8f.jpg

この状況は体温でも同じですが、波長はずっと長く赤外線になります。更に宇宙の温度は極低温ですが、その背景放射とよばれるものでは、最も強い光の波長は2mmほどになります。しかし、そのようなすべてのスペクトルが、この放射公式によって理論的に説明できるので、おでこから出る光の強度をこの公式と見比べて、温度計として利用できるわけです。

プランクがこの公式を見つけるまで、太陽光のスペクトルを理論的に正しく表す理論はありませんでした。しかし、プランクの理論には一貫性がなく、もっと筋道だった理論はないかと、当時の学者たち(アインシュタインもその一人でした)が頭を悩ましていましたが、いい考えが思いつかなかったのです。

それから24年もたって、インド(当時はイギリスの植民地でした)のダッカ大学のボースという若い学者が、この公式を数学的にスマートに導くのに成功しました。彼の理論は、初めて論理的に筋道だってプランクの公式の意味を明らかにしました。ところが彼はイギリスの専門誌にその論文を投稿しましたが放置され、受理の返事を受け取ることができませんでした。そうこうしている間に、彼はアインシュタインにその原稿を送って、「なんとかドイツの専門誌に出してもらえないか」とダメモトで頼んでみたのです。

それを見たベルリンのアインシュタインは大興奮!「若造にしてやられた!」と思ったかどうかは判かりませんが、英文の原稿をドイツ語にすぐに翻訳して、さっそくドイツの専門誌に発表する手助けをしました。また、彼はそれを土台として、すばやく、今日ボース・アインシュタイン凝縮という多数の量子の表す重要な現象を理論的に予言しました。これはBose-Einstein Condensation;略称BECと呼ばれます。

こうして、ボースの理論が世に出る助けをアインシュタインがしたというので、アインシュタインの素晴らしい美談として語り継がれてきました。

ところが、ボースより13年も前に、ポーランド(当時はまだポーランドという国はありませんでした)の古都、クラクフのヤギェウォ大学(この大学は1364年に創建されました)のナタンソンという理論物理学者が、ボースとほとんど同じ考え方で、プランクの放射公式を理論的に導く論文を地元の専門誌に発表し、しかも、それがドイツの物理学の有力な専門誌の編集長が知って、さっそくドイツ語に翻訳して、その専門誌に掲載しました。

"On the statistical theory of radiation". Bulletin de l'Académie des Sciences de Cracovie (A),134–148, 1911.

"Über die statistische Theorie der Strahlung". Physikalische Zeitschrift. 12, 659–666,1911.

natanson.jpgしかし、そのようなドイツの専門誌に掲載されたこの論文も、アインシュタインや当時の有力な学者たちに重要視されず、ボースもアインシュタインも自分の論文に引用することなく、1967年になってフントというドイツの有名な理論物理学者の科学史の著作で、ナタンソンの論文の意義が紹介されました。

ナタンソンの論文には、非常に重要な考えが書かれていました。それは光の量子(今日フォトンと呼ばれます)が多数あるとき、個々のフォトンは全く区別がつかないことを仮定して、プランクの放射公式を理論的に導いたのです。ボースやアインシュタインはその仮定は頭から当然のこととして、数学的に取り扱いました。しかし、その根拠は明らかにされていたとはいえません。この区別がつかないという性質は、不可弁別性と呼ばれ、量子が量子であるための基本的条件といえます。

数学的にいえば、これはたとえば3個のリンゴを一列に並べる方法は6通りありますが、区別がなければ違いがないので、一通りです。ですから統計的な計算では大きな違いが出るわけです。不可弁別性がなければ、プランクの公式は導かれません。

これは今日では量子の持つもっとも基本的な性質であり、フォトンはもちろん、あらゆる基本粒子が基本的に備えている性質であることが分かっています。

どうして、ナタンソンの論文が引用されなかったのだろう? 

この疑問を筆者が最初から持っていたわけではありません。放射公式も教科書通りの理解で、ナタンソンという学者の名前も全く知りませんでした。

しかし、ある時、少し違った疑問が湧いた出来事があり、やがて、それがこの疑問に筆者を誘ったのです。