湖の上で

投稿日 : 2021.06.26


1993年、イタリアのトレントの近くの保養地で、小規模な勉強会が開かれました。

トレントはロメオとジュリエットの舞台となったベローナから、オーストリアのインスブルックへ通じる古い街道筋にある都市です。#3.jpg谷に沿った街道の左右に迫る峰々には、城郭や僧院など、この街道の歴史を物語る建物が車窓から眺められます。右はそのときのスケッチの一部です。

さて、次はその勉強会のポスターの一部です。BECimage1 (2).jpg

この勉強会はBECに興味を持つ、というか「BECファン」の集まりで、物理学のすべての分野でこの現象に興味を持つ研究者があつまりました。出席者は70人ほどだったでしょうか。このような企画はこれまで一度も開かれたことはなかったそうです。

というのは、アインシュタインがBECを予言して以来、それが確実に実証される実験結果が得られていなかったからです。しかし、ついに固体物理学の分野でどうもそれが成功したらしいという論文が発表され、この機会にということで企画されたのです。

ここで招待された学者はそれぞれの分野で名の知れた方ばかりで、複数のノーベル賞の受賞者や後で受賞された方もおられました。ちょうど筆者は固体物理の分野でその方向の論文を出したころで、同僚と二人で一般の参加者として出席しました。教科書や論文で知っていても、初対面の著名な学者たちと席を同じくするのは、なかなか緊張もするし、刺激を得るものでした。とくに物理のすべての分野で共通の興味をもった人々が集まるので、同じ高さで話せる雰囲気の雑談も幅広く、専門分野に細分化されている普段とは違った、物理学は一つだなという一体感もありました。唯一困ったのは、レセプションで出された大きなケーキのクリームが、セメントをなめるような味で、周りの方が美味しいからと親切にもドッサリと皿に加えてくださり、味覚が違うなと思ったことぐらいでした。

この勉強会の冒頭に、BECの歴史を振り返る講演があり、アインシュタインがこの現象を理論的に発見するまでの歴史として、ボースとの運命的な交流についても話されました。どれも一度どこかで聴いたり読んだりしたもので、特に気になることはありませんでした。ただ、ボースがアインシュタインへ原稿を送ってそれがドイツの専門誌に出る過程に、なんとなく嫌な違和感を抱いたのです。それがどうしてなのかはその時は分かりませんでした。

アインシュタインはボースに、「望み通りあなたの論文は出版したよ」とハガキで知らせたのですが、それに、「理想気体への拡張については、自分が別の論文で発表する」という予告を付け加えていました。

実際、ボースの論文が受理されると、ほとんど同時にボースの理論を土台として、BEC発見につながる彼の最初の論文が、別の専門誌で受理され発表されました。

勉強会の途中で休みの日がありました。開催地からはドロミテアルプスの一角の山へ登れるし、近くにはガルダ湖という大きな湖もあって、出席者は山登りと半日クルーズに分かれて楽しみました。

筆者はガルダ湖のクルーズに参加しました。クルーズのコースはガルダ湖の北端にある、Riva del GardaからMalcesineを往復する簡単なものでした。

それは、ちょうどRiva del Gardaへ戻るときで、Limone sul Gardaの近くを航行しているときのことでした。

ここはこの湖の最北端で、アルプスが生まれたときに岩盤が大きく破れて深い亀裂になったところに水がたまったようなところで、切り立った岩壁が湖にほとんど垂直に落ち込んでいるようなところです。次の写真の対岸の岩山のふもと付近です。bec-bose.jpg

ちょうどこの頃、天気が急に下り坂になって雨が降り始め、船の周りの湖面は真っ白になり、岩山の陰で暗く、辺りは陰鬱な雰囲気に変わり、その上湖水特有の生臭い香りが立ち込めました。

そのとき、ふと、アインシュタインがボースへ送ったハガキの文面が想い出され、大げさに表現すると背筋が凍るような気持が一瞬しました。「帰って調べよう」そう思いました。

帰国後さっそく図書室で調べているときにフントの歴史書をみつけ、読んで驚いたのです。ここでナタンソンの論文を初めて知りました。勉強会で知り合った何人かに、ナタンソンのことをメールで尋ねてみました。その中には科学史に造詣の深い著名な学者も含まれていました。ところが、誰もが「聞いたことはないね」

これでまたびっくり。ボースと並行して、ナタンソンについて調べ始めました。そしてクラコフの大学図書館の係りの方の親切な助けも得て、ナタンソン自身が記した自叙伝、書簡のアーカイブのリストなどをたよりに色々な資料を集め、更に後日ヤギェウォ大学の知人の助けもあって、筆者の論文の最初の原稿ができました。

投稿した論文は数人の科学史の専門家による査読が行われ、後日その結果を受け取りました。「学術論文としては曖昧な記述が多いということで改良するように」と、詳しく問題点が指摘されていました。中には「アインシュタインのハガキについては、当時は査読の制度はなかったので問題はなかった。こんな論文は却下すべきだ」という意見もありました。

確かに、どれももっともな意見でした。投稿しても長い間放置された挙句に、「あなたの論文は別の雑誌に投稿するのがふさわしい」と送り返されたり、「あなたのボスに直してもらいなさい」というのもあるし、「何か月も経って受理されてみると、同じテーマの論文が並べて印刷されていたり」というのに比べて、なんと良心的で素晴らしい査読者たちだと思いました。

また、編集長の「折角投稿された論文だから、何とか意味のある論文にする義務が編集長にはある」という風な意識にも改めて心うたれました。

そこで、初めて、「厳しい判定を下した方々がクレームをつけることのできないような原稿にしてやろう!」そう覚悟を決めました。それはとても刺激的で、楽しい作業の始まりになりました。そしておよそ10カ月ほど後に、幸い受理されました。