論文の概要(その3)石原 純

投稿日 : 2021.07.01


4.Japanese who may have read Natanson’s paper before 1924 (1924年より前にナタンソンの論文を読んだかもしれない日本人)

査読者の意見を受け取ってから、さて、どのように原稿を改良しようかと考えました。そこで気が付いたことがありました。ナタンソンの論文のことを調べているのですが、舞台はヨーロッパ、当時日本は量子力学の研究の中心からはなれているので、帝大の学者たちもほとんど彼らの研究については蚊帳の外のように置かれていたかもしれない時代。それを当地に調査に行きもせず調べようというのですから限界があります。その上、語学のハンディーもどうにもなりません。そうはいっても、当時一人ぐらいナタンソンに絡む学者が日本にいてもよいだろう、もし見つかれば筆者が調べる意味もあって、査読者も知りたいかもしれない。そういう作戦で調べました。

やってみるものですね。見つかりました。一人は長岡半太郎、そしてもう一人は彼の弟子の石原純でした。長岡半太郎は原子のモデルをラザフォードが実験で示す前に提案した学者です。また、石原純は1912年の4月から1914年の五月までベルリンのプランク、その後ミュンヘンのゾンマーフェルトのもとで勉強し、その間にチューリヒのアインシュタインに面会したそうです。そして1914年に開設して間もない東北大学の物理教室の教授になりました

調べを進めていると、ラザフォードに対する長岡の鬱憤や、石原純が1924年のボースの論文と全く同じ発想でプランクの放射公式を導いた論文がみつかりました。ラッキー、これを加えよう。

そして二つの事実が有用でした。一つはナタンソンが長岡へ例の論文の英語版(クラクフで発表したもの)の別刷りを送っていて、それが筑波の国立科学博物館のアーカイブに残されていたことです。これはナタンソンの論文を長岡が読んだ可能性が高いことを示しています。もっと後のことですが、長岡がナタンソンへ送った次のハガキもヤギェウォ大学の例のアーカイブに見つかりますので、論文の交換は続いていたと思われます。e732df40a681be9e27257a3bf1edbc27cfc64633.jpg

もう一つは石原の論文を東北大学の図書館で発見できたことです。

筆者は彼の次の論文, Ishiwara, Jun 1911–1912: Beiträge zur Theorie der Lightquanten. Science Reports of the Tohoku Imperial University 1, pp. 67–104の該当部分を、次の様に紹介しました。

In this paper, he derived Planck’s radiation law by assuming that the unit volume of the phase space should be h3 where h is the Planck’s constant. He also took account of the degree of freedom, 2, of radiation field due to its polarization in his calculation. Therefore, his approach was almost the same as Bose’s. However, he did not refer to Natanson’s paper of 1911.

詳しいことはここでは省略しますが、彼がナタンソンの論文を長岡、プランク、ゾンマーフェルトとの会話で知りえたかどうかはいまのところわかりません。

逗子の石原純のアーカイブで孫娘の森裕美子さんの御厚意で見せて頂いた、ゾンマーフェルトの下で勉強していたころの日記の一部を以下に示します。慣れぬ地での彼の奮闘ぶりがうかがえます。ishiwara-munchen1.jpg

そして、次の文章を筆者は翻訳して論文に入れました。ishiwara-munchen4.jpg

ゾンマーフェルトは光の量子についてあまり納得していなくて、ナタンソンの論文についてもあまり興味を示していなかった可能性があるとこれを読んで思いました。(昨年急逝された金田康正氏から生前、「折角なら日本語の原文をのせたほうがよかったのに」とのコメントをいただきました。尤もだなと後悔しています。氏との長い交流が突然断たれたことは悲しいことです。ご冥福をお祈りします)

石原純は東北大学の教授の時に、アララギ派の女流歌人との不倫問題で大マスコミによるバッシングを受け自ら辞職し、研究の現場を離れました。その後は岩波『科学』の編集長として、科学の啓蒙とアインシュタインの相対性原理を日本で広める上で大きな役割を果たしました。しかし、筆者は光の量子統計についての彼の論評をまだ見つけられていません。長岡ももっぱら原子の構造に興味があったらしく、光の統計にはあまり興味を示さなかったのではないかと感じています。つまり、これらのことは、ナタンソンが日本でほとんど知られなかったことと大いに関係していそうです。

また、長岡半太郎のような非常に影響力の大きかった学者の興味が、どちらかというと、原子や分子、原子核方面への興味として広く引き継がれ、光子統計や量子統計の基礎理論は、教科書での分かり切った事項の一つとして、それ以上の興味を広げる効果が薄い傾向が続く原因になったかもしれません。

つづく