論文の概要(その5)ゾンマーフェルトの胸の内

投稿日 : 2021.07.04


6. Effects of complex emotions in war time , 戦時の複雑なセンチメント

ナタンソンの論文が発表されたころはともかく、ボースの論文がドイツで発表されたときに、誰か一人ぐらいナタンソンの論文を思い出す学者がいても不思議はないのでは?と思いました。

一方、石原の論文は、ベルリンから見れば、遥か彼方の大学の紀要に出されたものなので、ボースの論文を見て石原の論文を思い出す人は日本の学者しかできないはずですが、それは望めそうもなかったと思うのは自然でしょう。でも、ナタンソンの論文の方は、ヨーロッパではいてもよさそうに思いました。

その唯一の候補はゾンマーフェルトだろう、と考えました。なぜなら、彼はナタンソンの論文も、石原の論文も知っているし、アインシュタインと共に当時の量子力学の発展に大きく寄与して、インドとの学者の交流にも後年尽力した影響力の非常に大きかった学者だったからです。

彼は、光の量子説については今一つ乗り切れなかったらしいことは前にのべました。しかし、それに加えて別の理由もあったのではないかと考えました。それはナタンソンに対する別のセンチメントで、これは、当時のドイツの学者が多かれ少なかれ持ったと想像できるイギリスの学者に対する恨み節が、政治問題化したことの後遺症のようなものに見えます。

1914年ドイツはロシアに宣戦布告し、3日後にイギリスがドイツに宣戦布告しました。イギリスの有力な物理学者たちはこれに応じて、ドイツに対する反対声明を出しました。これにドイツの物理学者たちが激しく反応しました。これはレ―ナルトなどの学者が世論を煽ったことによることも大きいようです。詳しい事情や経緯は、長くなるので省略しますが、仔細はWolffの論文を参照してください。

その結果、ドイツの知識人たるものはイギリスの著作を排斥して、論文はドイツ語で書き、イギリスの論文は引用禁止、のような内部規制の申し合わせに多くが署名しました。ゾンマーフェルトもその一人で、彼はそのサポータの役割を担いました。ところが、ドイツは戦争に敗れ、ドイツの学者もイギリスの学者たちとの関係をさっそく修復せざるを得なくなります。それは敗戦国のドイツの知識人たちにとっては屈辱的な出来事だったに違いありません。一方、ポーランドは独立を達成し、ナタンソンはポーランドの科学界の代表として戦勝国の組織で活躍しました。そのような政治的な背景の下で、ゾンマーフェルトがナタンソンをあまり好ましい人物に見えなくなっていたらしく、それがボースの論文が出た後にナタンソンの論文をコメントしなかった要因かも知れない、と筆者は考えました。

このような複雑な時代を事実をもとに論じるのは、筆者の知識不足や表現能力の不足、語学力の限界をはるかに超えていましたので、論文では二つの脚注を加えることにとどめました。

一つは、当時のドイツの学者の感じたイギリスの学者たちに対する恨み節は、どこにでもあった可能性を示すために、長岡半太郎のラザフォードに対する恨み節を引用しました。これは、湯川博士がノーベル物理学賞を受賞したことに対するコメントを求められたときに記したもので、平たくいえば「ラザフォードが原子の中心に核があるという実験結果を出したことに対して、長岡は自分が以前に発表した土星型の原子モデルのことをコメントしました。すると、ラザフォードは、「私はあなたの論文をまだ見ていない(読んでいない)」と返事したことに対して、「なんだって!あなたがいつも読んでいる専門誌にだしたものを、まだ見ていないとはよくいったもんだ・・」でも、そうは書けないので「私の心境は賢明な読者の判断に任せる」のように表現しています。そして言外に「湯川の受賞で、もうそんな扱いはさせない」といいたいような雰囲気が文章から感じられます。

現在はかなり状況は違ってきているはずですが、本当にそうかは筆者には判断できません。

次が筆者が加えた脚注の全文です。
23) One of the origins of such movements in the German scientific community was their complaint against English scientists who did not cite their papers properly (Wolff2003). A similar sentiment was shared by Nagaoka, when he published his paper on the structure of the atom. He wrote in his essay: (When Ernest Rutherford succeeded in verifying the presence of a nucleus at the center of an atom experimentally, seven years after Nagaoka published his paper in Philosophical Magazine ) “Rutherford wrote to me saying «I had not read your paper on your atomic model yet». Since he had published all of his papers in that journal, it was difficult for me to understand this. He should have been familiar with that journal for the last seven years. His excuse does not ring true. In addition, his model was essentially similar to my Saturn-like model. My sentiments will be left to the wise reader’s guess” (the original text was written in Japanese: Nagaoka 1950).

そして、ボースも実は同様な感情をある時期持ったのではという意味で、次の文章を本文で引用しました。

William A. Blanpied described that the social atmosphere at that time gave Bose a strong psychological influence: Bose visited France for the second time in 1951, and for the next several years traveled extensively. But he never had any desire to see Germany again. The memories of 1926 when young German girls confided that their sons would revenge the “betrayal of 1918” remained too strong for him (Blanpied 1972, p. 1217).

もう一つの脚注は、戦後のドイツの物理界の混乱とゾンマーフェルトの立場を想像できる手紙についてのものです。この手紙はミュンヘンのゾンマーフェルト・コレクションの資料で知ったものです。詳しくは省略しますが、次が筆者の脚注の全文です。

24) On July 20, 1925, Max Theodor Felix von Laue sent Sommerfeld a letter that suggested a serious conflict had broken out within the German-speaking physics community (Archives 3, München, DM: Archiv HS 1977-28/A, 197).

In this letter, one finds: “Als die zu so trauriger Berühmtheit gelangte Arbeit von Bose englisch erschienen war, hat sich nicht nur Lenard, sondern auch andere Mitglieder der Deutschen Physikalischen Gesellschaft mit Beschwerden darüber an M.Wien gewandt. (When Bose's work appeared in English and became the subject of unfavorable rumors, Lenard as well as other members of the German Physical Society lodged their complaints with M.Wien.)

The „Bose“ in this letter has been identified as S.N.Bose by the Sommerfeld project.This suggests that the conflict was caused by Bose’s paper of 1924.

Two opinions have been proposed concerning „Bose“: Stefan L.Wolff (2003) implied that „Bose“ in fact was R.N. Ghosh (1925), indicating that Laue was mistaken. However, Rajinder Singh (2001) accepted Laue's description as it was.

I think these opinions are not alternative, but rather correlated.
Further study is necessary to learn why Laue referred to „Bose“.

とにかく、このような脚注が査読で削除されなかったことは印象深いことでした。また、論文では触れませんでしたが、この騒ぎには、ドイツの物理学会の改組について、ナタンソンの論文のドイツ語で出版した Physikalische Zeitschriftの編集長のKrügerとアインシュタインなどが新しく作ったZeitschrift für Physikの編集長のScheelとの確執(これはある意味で、アインシュタイン派と反アインシュタイン派の主導権争いの象徴とも言えそうです)も絡んだものだったようです。これは量子論をめぐる物理学の進歩の過渡期の一現象と思われます。この話については根拠を示す必要がありますが、引用すべき文献を筆者はよく吟味していませんので私見です。