中村文則のある視点

投稿日 : 2022.07.05


ふと手に取った『カタログハウス』という冊子の掲載されている作家の中村文則の時事エッセイが目にはいりました。タイトルは『色々な国に行って一番日本社会に近いと感じたのはロシアだった』です。これはこの冊子に連載される2回目のエッセイです。これは二つの内容を繋いだようなもので、ここでは最初の部分にある著者の問いかけについてに限って考察してみました。

彼は『なぜ第二次世界大戦前後のロシアの人々は、厳密に言えば外国人だった独裁者・スターリンに跪いたのか』と問っています。

スターリンの出身地はロシアではなくグルジア(ジョージア)です。またヒットラーの出身地もドイツではないので、これらの独裁者がなぜあれだけの残虐行為をして、それを国民が許したのか? という疑問です。

これに対して、あるロシアの専門家の意見として『ロシアの社会は政治を汚いものと思っているので、外国人に任せたかったのでは、と分析している』と引用しています。そして、中見出しとして『穏健な政治家ではロシア人のマゾヒズムを満足させられない』とあり、その視点を著者は驚いたとともに、彼の経験からこのコラムのタイトルへの視点を述べています。

その根拠となっている彼の感じる印象として、ロシア人の『ナイーブで、他者に気遣う、繊細な人々が多い印象』やドストエフスキーが、『ロシア人は「みんな」という言葉に弱いと書いている、「みんな」と同じようにしたいという感覚。どこの国もどうせあるけど、確かにその度合いは、日本社会も強い気がする』と述べています。

筆者は、ロシアの専門家でもないし、彼の作品を読んだこともないので、とやかく言うことは僭越ですが、ただ、以前物理学のある狭い分野の研究者として学問上交流する機会のあったロシア国籍の複数の優れた物理学者から受けた印象として、『ナイーブで、他者に気遣う、繊細な人々が多い印象』を感じたことは否定できません。しかし、『日本社会も、政治と広い意味でのマゾヒズムは関係しているのだろうか』と述べている点では「そうかなあ?」と思いました。

ただ、「・・・だろうか」という表現は、先のロシアの専門家の名前が明らかでないのと合わせて、不満が残りました。また、スターリンにプーチンを重ねているのかどうかも、意識的に避けられているように感じました。

また、「マゾヒズム」は、もともとは他から酷い目に会うことによって自分の性欲が刺激されて快感と感じる心理現象で、行き過ぎると病気ともいえる現象ですが、著者は「マゾヒズム」という言葉の定義を広く解釈し過ぎているのではないかと感じました。

彼はマゾヒズム的な国民の気風を示すロシアと日本との共通点の例として、日本の童話『桃太郎』をあげています。つまり、「どこから流れてきたかもしれない桃から生まれた部外者に、自分たちの敵である鬼を征伐させて、自分たちは静観している」例だと述べています。

しかし、作家の玄侑宗久は最近のYouTubeでこの童話について語っていますが、それによれば、この物語は時代によって意味合いや表現が変遷していて、必ずしも著者が例と挙げるにふさわしいかどうかについて疑問を感じます。

筆者は、むしろ最初の問いかけに対する答えは、最近ここで取り上げた『メトロ2033』の作者で、モスクワ滞在の作家、Dmitry Glukhovskyのインタビューに見つけることができると思いました。

彼は『ウクライナ人と違って、ロシア人はこれまで役人との対決でいつも負けてきた,・・・・あらゆる試みが実を結ばなかった。何万人ものロシア人がウクライナ戦争に反対して街頭に出たとき、私は彼らが戦争を終わらせることを望んでいないことを確信した。彼らは無力感で結ばれていた。なぜなら、ロシア国家はこのような状況にある人々と出会うことがなかったからだ。・・・近年、プーチン政権が唯一うまくいっているのは、腐敗したメディアのプロパガンダで自国民を威嚇、弾圧、操作するからだ』とインタビューで答えています。また、『一般のロシア人が日常生活の中で人間の尊厳の尊重を感じる機会がない。彼らは無力で苦しく、貧しく、虐げられている。同時に、当局に提案する勇気もなく、抵抗しようとすれば容赦なく反撃される。こうして人々は、人間としての尊厳への憧れを大国への帰属意識に置き換え、自分たちの要求を国家に転嫁していく。・・人はプロパガンダに弱いものだ』ともあります。

しかも、『戦争反対者は中傷され、排斥されるだけでなく、本当に嫌がらせを受ける。そのため、異なる意見を持つ人が、あえてそれを表明することがなくなってしまった。このような風潮に適応するための戦略のひとつが、簡単に説明すると「適合主義」である。人は、自分にとって原則的な意味を持たない問題については、多数派と思われる意見を持ちたがるものである。そのとき、もし当局が「人肉食のキャンペーンに協力しなければ裏切り者になる」と言えば、自分たちは人を食べないが、自分たちはこのキャンペーンに反対することはないだろう。そんな人たちは、必要なときに、注目を浴びないように旗を振ったり、どこかに「Z」の文字を描いたりすることがあるそうだ。同時に、それらの人々の本当の意味での戦争への犠牲意識は非常に低いことがわかる』

日本の人々もその意味では古代以来現代まで、この状態が続いているとも言えて、そこに共通点があると言えます。でも日本だけのことではないと思いました。

また、これもここで取り上げたことですが、チェコのロシア専門家Jan Holzerの視点も参考になると思いました。

『ロシア社会について語るのは難しい。国土が広い。人口構成、民族構成、言語構成、人種構成、気候の影響など、様々な違いがあって、歴史はこれに依存している。軍隊も非ロシア系民族による編成が最も多く、歴史的にも部族的なアイデンティティーを持つ地域が多いという傾向が記録されている。何百、何千キロという不毛のツンドラが広がっていたりして、そこを1本の鉄道が走っているようなところだ。このような場所を近代化などというカテゴリーで語るのは意味がない』

『ロシア社会は、社会的・記憶的な意味だけでなく、物理的な意味でもそれぞれが局在化されているので、社会全体の絆などは地理的に無理で、そもそもありえない』

『モスクワからサンクトペテルブルクまで、ヨーロッパのロシアがあるのです。しかし、東側にはカザンやタタールスタンがある。そして、タタールスタンはもはやロシアではない。そうなのか?どうだろう?ロシアの社会、ロシアの政治について語るのは本当に難しい。なぜなら、そこでの多様性は、私たちが西洋の社会科学で慣れ親しんできた、首尾一貫した、境界のある領域で働くカテゴリーの地平を越えているからです。ロシアにはそれがない』

中村文則の視点を読む時、彼が述べているロシア人の定義が曖昧で、彼の視点を否定はできないものの現在のウクライナ戦争の事情を考えると説明がこのエッセイの限りでは不足しているように思いました。

一つ筆者が付け加えると、モスクワからサンクトペテルブルクに至る地方をロシアの中心部とすれば、そこからみれば地方である地域で生まれたスターリンのような人物が、中央政界へ出てきて活躍するようなことはよくあり、明治維新と呼ばれている武士階級のクーデターを見るまでもなく、日本でも似た現象が沢山あります。

これは政治家だけでなく経済界や芸術分野など、地方から一旗揚げられる実力や野心をもった人材が生まれるのは自然のように思いました。それを外国人や部外者と呼ぶには国民のスペクトルを狭く見過ぎているのではないかと感じます。なお、プーチンについては、中心部で生まれた人物ではありますが、公安警察というこの職種を好んで選ぶ人は多くないと想像できる分野から出てきた人で、そのある意味での暗さがバネになっていると思え、都に対する地方という心理的な意味と多少の共通点が感じられます。

併せて、玄侑宗久のつい最近のYouTubeも参考になりました。