12 新しい展開
投稿日 : 2021.12.22
塩化銅の励起子分子による二光子遷移による位相共役波の発生や、偏光を活用した分光法が筆者のグループで定着したころ、Mysyrowiczたちはといえば、BECを実現するための実験を1979年ごろから続け、1983年には数編の興味深い論文が発表されました。
一方、筆者らは共鳴蛍光の議論を踏まえて、2光子共鳴で波数ゼロの励起子分子が本当にできるのかという疑問を感じていました。これは励起子分子の状態が、方違いでの立ち寄ったつもりとするお寺なのか、本当にそこで宿泊できた宿なのかをはっきりしなくては、BECの可能性を云々できそうもないと考えていたからです。そしてBECの実験を始める前に立ちはだかっているこの原理的な壁を乗り越える方法を模索していたのです。
しかし、彼らは励起子分子の発光スペクトルの形が速度分布を反映するという事実に基づいて、ある濃度を超えれば化学ポテンシャルがゼロになる状況が、発光スペクトルの形の変化として見えるはずだという信念をもって実験を行ったわけで、これは以前筆者たちが持った考えの再現でした。
筆者はMysyrowiczとは励起子分子の2光子吸収を知ったころからの旧知ではありますが、直接一緒に研究をする機会はありませんでした。そこで、この辺でお互いが共同研究をしてもっと身近にこの課題にチャレンジできればいいなと思っていました。
幸いその機会が1987年に訪れました。それはHanamuraと彼との共同研究が日仏双方で認められ、彼が日本を訪れることができるようになり、その機会に筆者らとの交流の可能性を打診されたのです。欧米の研究者たちは、車や列車で、またすでに航空券も安かったので、お互いが気楽に行き来することができたのですが、日本はその点で地理的に非常に不利で、航空料金もいまほど安くはなかったので、こんなことでもない限りできにくかったわけです。
塩化銅の励起子分子の束縛エネルギーは大きいので、二光子共鳴エネルギーは励起子の光吸収域から外れた透明領域にあります。ですからそこに大きな光学非線形性による屈折率の変化が起きるということは、光通信などに有用な光双安定性(調和振動子発展としてのDuffing oscillatorの分極版)を利用する素子の基礎研究になるという考えが当時話題となっていて、Mysyrowiczも筆者たちの持っていた良質の試料に注目したのだと思います。もちろんそのような応用面を考慮した研究とは別に、彼の個人的に強い興味を持ち続けて来た励起子系のBECの研究もこの機会に深めたいという考えも当然ありました。
彼は自分の研究室を持つのではなく、時々の興味に合わせて相手を見つけて世界を股にかけて成果を重ねるタイプの研究者なので、筆者のようにただBECだけに興味を持っておられるような立場ではなく、時々の応用的なホットな興味にも機敏に反応して研究を進める必要もあり、その素質に恵まれていたのです。
この誘いは私たちにとっても望むところで、さっそくその実現を待ったわけです。また、実験の基礎になる試料についての共通の認識を得るために、共同の研究が実現したときに備えて、東北大学のT.Itohにも参加を依頼しました。
1987年の新学期ごろから、彼とHanamura、Itoh、Kuwata(Gonokami)、それに筆者も加わって実験サイドの共同研究が始められ、筆者の研究室でKuwataが実験を担当しました。その当面の目的は非線形性(つまり非線形屈折率、感受率)の評価でした。そこでは塩化銅の試料の定量的な比較と評価もなされましたが、装置の制限などもあって、満足な評価は結局できませんでした。
一方、彼はBECを探す斬新な提案もしました。それによると、光で励起子を大量に作ると高密度の励起子分子ができますが、もしBECが実現するとゼロ波数にコヒーレントなマクロな量子状態が実現するので、そこへ外部から適当な光を当てると、まるで位相共役波のような信号が発生するのではないか?というものでした。このアイデアの問題は、位相共役光の光源となる3次の非線形分極と波数ゼロのコヒーレントな励起子分子の状態が、どのようにミクロなレベルで一対一に関係しているかについて分からないことでした。つまり、沢山の励起子分子が波数ゼロの状態に実際に出来て、それが始状態になって、外部からの光によってその光に対する位相共役波のような信号が誘導される論理的根拠が薄弱だったのです。
実際、Kuwataらの何度かの実験にもかかわらず、残念ながら期待した信号は全く観測できませんでした。
そんなことで、結局、この時には目立った成果は得られませんでした。考えてみればもっともなのですが、短期間に彼が訪れて、その短い期間での大成功を期待するのはさすがに無理があったのです。成功のためにはその前に相当長い時間をかけた予備的な準備がいることが多いからです。しかし、筆者個人には大きな収穫がありました。それは物理学ではなく、研究者各人の生きざまを占う興味ある体験だったのです。
さて、研究者を生業とする限り、自費で趣味の研究をするわけではありませんので、その成果を報告書や論文によって公表する必要があります。Mysyrowiczも来日の成果の一部として、この実験結果をできれば論文として残す必要があったのかもしれません。
一方、実際に実験を担当したKuwataにとっては、自分が満足できる目的が十分に果たされていない状態では、彼のおはこの偏光分光法の利点を世間にアッピールする意味でも、この段階での発表は控えたいと思ったはずです。筆者はというと、非線形感受率が正確に評価できることは重要ですが、塩化銅は多数ある物質の一つに過ぎないわけですから、その評価を目的として仕事を続けることにはあまり興味を持てませんでした。そのように色々な問題はありましたが、とにかく論文は発表されました。筆者は今後のMysyrowiczとの研究を続けるために発表は意味があると判断しました。また、筆者は、この時さっぱりうまく行かなかったBEC狙いの実験を成功させるためには、新しい共同研究の枠組みが必要だろうと思いました。
どんな実験でも、楽な作業ではありません。肉体的にも精神的にも疲労が溜まります。さっぱりうまく行かないわけですから、なおさらのことです。Mysyrowiczの滞在時間は限られています。このようなストレスの中で、筆者はMysyrowiczと夜食を求めて夜道をさまよったことがあります。途中でのいろいろな会話から、筆者は「ダメもとでも、やりたいことをやろう」と思いました。たとえそれが自分が今後、今の仕事で食べていくために望ましくない障害になっても、まあ何とかなるだろう。元々リスクを気にせずに、この職業を自分で選んだのだからと。
やがて、筆者の研究グループからKuwataが転出してHasuoが加わりました。そしてMysyrowiczとの実質的な共同研究は彼が中心になって続けられました。
一方、この頃には時間的に光学現象を調べることができる短いパルスのレーザーの利用が一般的になり、塩化銅の励起子や励起子分子にも使われる研究が盛んになりました。しかし、筆者はその手法には興味を感じませんでした。
その理由の一つは過渡現象の探求はきりがなく、むしろある程度の長い時間スケールの間続く準平衡状態にドラマが隠されていると思っていたからです。もちろんそれは一般の過渡現象の一部で、その全貌が分かって初めてわかるものではあります。しかし、定常的に測定できるものは、その中のもっとも重要な部分が強調されて見えるのではとも思いました。本当はそうとは限らないのですが、おそらく、その昔イカの目玉の研究に少したずさわった時に感じた経験による先入観だったかも知れません。筆者は正反対の道、つまりレーザーの光のスペクトル幅をできるだけ狭くして、励起子分子準位のエネルギー幅をできるだけ精密に測定する分光学の伝統的手法を選びました。それは共鳴蛍光の議論でどうしても知る必要があったことです。
しかし、そこには現実として大きな障害がありました。それにはパルスではない連続的に光が得られるチタンサファイヤレーザーという装置がどうしても必要でした。しかし、そのためにはかなりの資金がいるのです。研究費を申請したからといって採択されるかどうかは判りませんし、装置が納入されるまでには時間もかかります。そこでまずは試しにレーザー業者から装置を借用することを考えました。しかし、装置が大掛かりになるので研究室へ運ぶことはできません。したがって会社に出かけて少しの時間、使わせてもらうことにはなりましたが、それで成果が出すのはさすがに無理で、虫が良すぎます。そうこう悩んでいたとき、Mysyrowiczからパリの光学研究所のP.Grangierが、装置を使わせてくれるという連絡があり、実際に数週間パリへ出かけて実験を試みました。
といって彼の装置を自分たちで自由に使うわけにはいきません。ほとんど彼に手助けをしていただきました。しかし、やはり簡単にはいきませんでした。因みに、彼はAspectのEPRの実験を一緒にした学者で、この機会は筆者がEPR問題を身近に感じる機会の一つになりました。また毎日遅い時間まで彼は気持ちよく私たちの世話を引き受けたのです。そんな彼の優しい人柄に触れ、彼がアスペと一緒に研究をしたわけもわかったように感じました。ありがたいことでした。
実際に、励起子分子の準位幅を測るという目的の成果を論文として出せたのは2年ほど後で、幸い研究費にめぐまれて装置を整えてからの話になりました。このとき、つくづく思いました。実験は装置がなければできません。また、実験装置は高価なものが多いので、けっきょくのところ装置を持っているか、買えるかが問題となるのはどうなのだろうという疑問でした。
話が脱線してしまったので元に戻します。
どうすれば折角のMysyrowiczアイデアを生かせるだろう? 当時筆者はそればかりを考えていました。
彼のアイデアでは、BECが実現して初めて期待している信号が観測されることになります。しかし、信号が出てこなかった場合、BECができていないのか、それ以外の原因によるのかが判定できません。
これでは実験をする方には精神的負担がかかりすぎます。そこで筆者らが提案した策は、とりあえず通常の手法で位相共役波を出させておいて、そこに励起子から作った励起子分子を加えてみて、位相共役波の信号がどう変化するかをみるのはどうだろうというものでした。この場合は彼のアイデアも、同じ時に同じ実験装置で試せます。
この案ではMysyrowiczは納得しませんでした。あくまで自然にBECができたものを観測したいということでした。彼の言い分は確かに尤もであり、筆者たちも願う所です。しかし、実際に実験をする立場を考えると、こちらの考えを取り下げることはできません。やるのかやらないのか!
しばらくの準備期間を経て、実際にHasuoが中心になって実験をしますと、確かに励起子をある密度で作ると、急激に位相共役信号の強度が増えました。原理的な疑問を抱えながらも、何か新し気な現象が見つかったことは確かでした。
この成果を論文とするために原稿を作ることになり、まずは、"A New Approach to the Study of Bose-Einstein Condensation of Biexcitons"という表題で発表しました。これはこの成果をとりあえず論文として残すためです。
さらにこの内容を深めて米国の専門誌に投稿することになり、草案作りと投稿作業は百戦錬磨のMysyrowiczに任せることにしました。最初の草案を受けとった時の筆者の疑問は論文のタイトル案、"Progress in the Bose-Einstein Condensation of Biexcitons in CuCl" にありました。
筆者の素朴な疑問は、”Progress”とはどの程度の”Progress”なら論文を書く意義がでるのだろう?
さっそく彼と国際電話で長話をしました。やはり最後は直の話し合いしかありません。その結果、ここは「これでいこう」ということになりました。
そして、この選択は筆者には新しい興味ある経験の序章になりました。
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