現代訳をする際に筆者が参考にした史料や文献など
投稿日 : 2021.05.18
次の表は筆者が『武徳編年集成』を読むに際して参考とした史料で扱われている期間が、どの程度時間的に重なっているかを示したものです。
一行目が西暦、次の行はよく知られた事件などで、時代の目安としました。3行目は家康の満年齢です。4行目が『武徳編年集成』です 。
5行目は『言継卿記』と『言經卿記』で、山科言継(1507-1579)と息子の言經(1543-1611)が記した日記です。
言継は後奈良と正親町天皇に仕えていた公家で、詩歌、文学、音楽、蹴鞠、更に調剤といった多彩な方面の素養と旺盛な好奇心を生かして、禁裏と将軍家、その他の有力な武将たちとのパイプ役を果たし、財政難の宮中にあってもっぱら資金集めに奔走した人物といわれています。彼の日記である『言継卿記』には禁裏の儀式や行事だけでなく、都や周辺で起きた政変や騒動についてかなり正確な情報が記されているとされ、学術論文でも重要な一次史料として多数引用されています。
また、彼の息子の言經も父の仕事を引き継いだそうで、父親と同様な日記、『言經卿記』を残しています。しかし、父親ほど日記をつける熱意というか趣味はなかったように見え、日記も日誌のような事務的な感じがします。ただ、彼の場合は家康との直接の接触がありました。
これらの日記は禁裏という特殊な場所からの記録のため、禁裏の塀の外の諸事については比較的第三者的な視点で書かれています。ここでは『言継卿記』は、国立国会図書館の提供するデジタルアーカイブとして公開されている1914-15年に出版された国書刊行会の版 を使いました。一方、『言經卿記』は東京大学史料編纂所が編集して岩波書店から1959年に出版された、『大日本古記録』に収録されている版を使いました。
6行目は『当代記』で、17世紀に姫路藩主だった松平忠明(1583-1644)が『信長公記』を基に編集したといわれる書物で、ここでは1911-1912年に出版された『史籍雑纂』第二に含まれている版 を参考にしました。
7行目は『家忠日記』で、松平家忠(1555-1600)の記した日記です。彼は関ヶ原の戦いの前哨戦、伏見城の戦いで戦死しました。ここでは国立国会図書館デジタルコレクションで公開されている1897年に出版された文科大学史誌叢書版 を使いました。
9行目は『江源武鑑』です。これは室町時代に近江を支配し、信長に滅ぼされた佐々木六角氏の5人の側近たちが個別に残したとされる日記を基に、後に編集された歴史書といわれています。しかし、この書物は澤田源内による偽書と云われています。これを偽書と認定した谷春散人が明治時代に書いた『澤田源内偽撰書由来』 を読むと、
『其愚文拙作一見偽作なるを看破し得べし』などと、そこここで澤田源内を糾弾していて、筆者からみると「大丈夫か?そこまで主張するには学問を越えた別の理由でもあるのかしら?」と正直思う程でした。しかし、この偽書説は現在も多くの専門家の支持を受けているようです。
とはいえ『江源武鑑』を通読するとなかなか興味深い内容も多く、偽書というレッテルを張られていても、書かれている内容を全て虚構で固めるのは著者にとっては却って難しく、むしろ事実も含まれているはずだと考える方が有用ではないかと、比較の対象としました。ここでは国文学研究資料館の提供するデジタルアーカイブ を使いました。
(*補足: 最近、『江源武鑑』の作者とされる澤田源内との係りが論じられてきた佐々木氏郷について、関係資料を精力的に収拾し、彼が実在の人物であることを科学的に解明しつつある福島誠氏の興味深いHPを知りました。
氏は、『江源武鑑』の記述内容の詳しい分析から、著者は非常に広範な史書などを読破して、それらを参考にしてこの書物を書いたらしいこと、更に、この書物には複数の本があること、また木版本の出版に要する費用や販売価格など、非常に興味深い研究結果をHPで公表されています。
今のところ、この書物の作者の解明には至っていませんが、この書物が偽書としてではなく、史学の研究史料として学術的に見直される日が来そうな予感が、ご本人との交信からしています。
この書物が、何のために書かれ、どうして編年体をとっていて、どうしていろいろな参考資料にある事象がそれぞれ該当期日に組み込まれているのか、そして、この普及版が当時どのような意味で人々に受け入れられた、つまり売れる書物になっていたのかなどが、明らかになる日が楽しみです。
なお、筆者のこの拙文の立場からいえば、福島氏の研究からこの書物の記述には多くの史料の断片が含まれていることになりますので、高敦の記述との比較のために筆者が選んだ史料の幅が自動的に拡げられたことになります)
10行目は『浅井日記』で、近江の北部を支配した浅井家の歴史書です。しかし、これも谷氏によれば澤田源内による偽書とされています。ここでは1915年に黒川真道が編纂した国史叢書に含まれる版で、国立国会図書館のデジタルアーカイブ として公開されているものを使いました。
最後は『明智軍記』で、この書物は谷氏による偽書のリストにあからさまには入れられていませんが、作者や書かれた時期が不明で、専門家の評価は高くはないようです。しかし、明智光秀について系統的に記した珍しい書物だそうで、内容を通読するとなかなか完成度も高く、他に見られない興味深い情報も多く含まれている印象を持ちました。ここでは国文学研究資料館の提供する元禄15年(1702)8月 大阪梶木町伊丹屋茂兵衛、大坂御堂前毛利田庄太郎版 を使いました。
なお、『江源武鑑』、『浅井日記』、『明智軍記』は、いずれも政治的には敗者の関係者によって記されたもので、先の史料の著者たちとは立場が違っています。ここではその違いにも配慮して比較の対象として選択しました。
以上の史料の他に、筆者が得られる範囲の現在の研究者による学術論文もエッセイでは適宜引用しました。
筆者の注釈についてはWikipediaやその他インターネットで得られる情報を根拠としていますので確かとはいえません。また、それらのURLをすべて明記することは煩わしくなるので避けました。なお、暦はすべて旧暦で原文に従っています。元号は改元が実際に行われた時点で切り替えました。
なお、国立公文書館によって、『徳川家康 将軍家蔵書からみるその生涯』として、家康の生涯についての解説が豊富な関係資料とともに公表されています。このようなサービスは素晴らしいもので、高敦の視点と比べるのは興味深いと思います。
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