三浦右衛門義鎮 (人の道って死語ですか)
投稿日 : 2021.06.16
三浦右衛門義鎮は今川氏真の寵愛した側近でした。高敦は、この人物が今川を滅ぼした元凶だといっているように読めます。そもそも氏真はどうして彼を知ったのでしょう? 話を今川義元の時代にワープすると、興味深い話を高敦は記しています。
その昔、天文7年(1538)のこと、今川義元が伊豆の熱海の温泉で入湯した時、近江の武将、小倉参河(蒲生氏)も来ていました。義元は彼に畿内の軍事状況を尋ねようとして、「駿河に来て家来にならないか」、と誘ったそうです。参河は義元の誘いを断って、「自分は齢を取っているので息子の與助を家来にしよう」、と約束して近江へ帰りました。翌年、與助は、約束通り駿府へ来て義元に仕えました。彼は天文11年の小豆坂の戦いで活躍したので、義元はとても喜びました。その後も彼は何度も戦で手柄を挙げたので、義元は彼を褒めて、美濃や和泉の武将をスカウトして連れてくるように命じました。
そのスカウトに応じて駿河に来たメンバーの中に、三浦右衛門義鎮の父、小原肥前鎮實がいました。桶狭間で義元が戦死し、後に小倉與助も亡くなって、與助の子の内臓助資久と三浦右衛門義鎮は氏真に仕えたそうです。永禄11年2月の条で、高敦は次のように述べています。
三浦右衛門は、去年氏眞の命令で引間の城を攻めて、城兵を味方につけた。氏眞が男色相手の三浦を寵愛するあまり、彼の手柄を過大評価して隊長に抜擢したり、彼の父の肥前が去年まで三河の郡代として吉田の城に住んで氏眞に大いに尽くしたこともあったりして、三浦の勢力は大きくなって老臣たちを越えてしまった。さらに、義元が桶狭間で戦死した時に今川の老臣たちが一目散に駿州へ逃げ帰ったために、彼らは面目を失い、三浦に何もいえなくなっていた事情もある。そんなところに、信玄は話のうまい使者を送って三浦に家来になるように誘った。ところが信玄の意に反して、三浦が派手で放逸なのを嫌って、彼を寵愛する氏眞を恨んでいた20人ほどの家来の方が、武田方につくことになった。こんなことが起きるのは、義を失い利に溺れる戦乱の世相のためである。
そう高敦は嘆いていますが、利に溺れる世相は時代を越えて、今の世もそう変わりがないようです。
その年の12月、武田信玄が駿河を攻め、結局、氏真たちは駿府の城を逃げ出して遠州の掛川に籠城しました。その後、今川氏眞は家康と和平しました。
一方、氏真が寵愛した三浦右衛門義鎮ですが、信玄が攻めてきたときは、父の小原肥前鎮實の居城の駿州花澤(現在の焼津)に父とともに立てこもっていましたが、永禄13年(1570)正月、25日 武田信玄が花澤の城を攻めたときに降参して追放されました。
高敦によれば、義鎮は氏眞に寵愛されていたときに横暴を極め、駿河と遠州の諸士の持つ豊かな領地を全て自分の所領に替え、諸士には洪水の出やすいような悪い土地を与えた。また、駿府では諸士の邸宅を奪って自分の遊ぶ場所とした。これは「後漢の候寛が他人の家を奪うこと381、奪った田が181」というようなものである。
そのおかげで今回は彼が身を寄せるところがなくなってしまい、知り合いを頼って高天神の城主、小笠原與八郎長忠の許へ行ったが受け入れてもらえなかった。そのとき、この近所の岡崎村は今川の近臣の四宮右近が支配していた。この人の姉は義元の妾だったが、義元が戦死した後、三浦右衛門は彼女を妻とした。その関係で父の肥前の妻や子とともに右近の砦の長屋に隠れ住んだ。そこへ小笠原から討手が送られた。これは家康が小原父子を恨んでいるのを知っていたので、自分が家康のために働いたというパーフォーマンスをしようとしたわけである。その結果、肥前は妻や子供を殺してから、一族郎党75人と共にまとまって自殺した。土地では彼らの遺骸を沓掛原に埋めた。⦅後年、大須賀康高はここに宗有寺という寺を建て、後代に続いている⦆
更に高敦は、こういう話もあるとして、(小笠原)長忠が(小原)らを惨殺したことを聞いて、家康が「窮鳥懐に入れば猟師も殺さず。まして、人が窮地に落ちた知り合いを惨殺するなんて人の道ではない」といったと記しています。現代では、「人の道」なる概念は死語になっている感もあります。
また、こんな話を高敦は記しています。
一説には、右衛門は父に遅れて高天神に逃げる途中に、民衆が蜂起しているのに出会った。彼が三浦右衛門だと名乗ると一同は大喜びで、「馬鹿な氏眞を騙して三遠駿の3国の民に酷い仕打ちをし、農民をむさぼり食っただけでなく、酷い目に会わせた天罰者がここに来たのはラッキーだ」と、数100人が彼を馬から引きずり下ろし、甲冑から下着まですべて剥ぎ取って裸にした。
右衛門は手を合わせて、「下着がほしい」といったが、里人は笑って棍棒に下着をくくりつけ、彼をなぶり殺そうとした。それを老人がようやく止めさせ、縄を解いて追放した。三浦は古いこも(藁のむしろ)を身にまとい、夜通し歩いて高天神までたどりついた。城主の小笠原は、彼に衣服を与えてしばらく父の肥前といっしょに面倒を見ていたが、この人は風見鶏のような人物で、氏眞が小田原へ落ち延びたことを知ると態度を翻し、肥前を殺した後に、右衛門を広い庭に引き出して、これまでの贅沢と残忍に対する天罰だとして、家来の足助長介に殺させようとした。
右衛門は天を仰ぎ、地に伏せながら、鼻をそがれ耳を斬り落とされてもなお命乞いをした。それを聞いた人々はあきれてしまった。彼がもだえ苦しみながらもいつまでたっても観念しないので、長介は彼を踏み倒して首を切り、屍を野原に棄てた。これは主人に取り入って威張る者の典型的な末路といってよい。
「主人に取り入って威張る者」、こちらの方はますます健在で、増殖中かもしれません。
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