水害の記録
投稿日 : 2021.06.16
天文19年(1550)
8月、高敦は珍しくこんなことも記しています。
2日 大洪水があった。
これだけなので、何処の話か全然分からわかりません。ところが、
2日 朝から大洪水があった。鴨川の東岸が決壊して民家2千戸ほどが流された。近江のあちらこちらの河川が氾濫して多くの田畑が被災した。(江源武鑑)
2日 昨日から大雨。大雨で帰れず、(禁裏に)留まっていた。(言継卿記)
とあり、仮に『江源武鑑』が偽作作家によるといっても、風水害のことを改ざんしても意味がないので、実際にそのようなことが起ったと考えるのが自然です。そこでこの水害を確認できる文献を探してみたところ、中嶋暢太郎の興味深い論文、『鴨川水害史』 が見つかりました。
これによれば、1400年から1550年の期間は鴨川の洪水の頻度が激増していたそうで、『1545年には「再び四条・五条橋が流失・祇園の鳥居に浸水して幕府が兵を出して四門を警護す」。「死者が淀・鳥羽に流失する」などの記事がみられる』とあります。そして、論文に掲載されている年表によれば、天文19年8月として、「淀川に大洪水、しかし詳細不明」とあり、原因は台風ではなく、恐らく前線によるものとされています。この日は現在の暦(新暦:グレゴリオ歴)では、9月22日に当たるので、秋雨前線が活発だったのでしょう。
それでは『江源武鑑』の信ぴょう性を確かめるために、別の水害の記述についてみてみました。
天文13年(1544)7月9日(新暦8月7日)
大洪水、陸地舟ヲヤル(遣る)カ如シ 江州所々ノ川水九合ニ及フ水ニオホル(覆われる)所多シ
とあります。中島氏の年表によると、天文13年(1544)7月9日(新暦8月7日)に、『畿内洪水あり、四条五条の橋墜つ 祇園鳥居流失、摂津河内の水害』とあり、これも恐らく前線によるとされています。しかし、次の言継の日記によれば台風も関係していた感じもします。
9日 大雨、遅くに晴れた。大洪水。禁裏の近くや室町小路、東の河原(鴨川)が増水しているので水、朝早く廣橋父子、自分、極﨟(高僧)父子、白光院らと見に行った。その後禁中にも水が来たと云うので白衣で(作業服に着替えて)見舞いに行った。廣橋父子・・など、皆なが白衣であった。壹屋の中間まで水が入り車寄せまで水に浸かった。御門の前は5尺ほど浸かった。将軍からは大舘左衛門佐・・・細川三郎四郎が派遣され、伊勢守など諸奉公衆、奉行衆など全員3,4百人が集まった。皆で手分けして土居を崩したので、水はすぐに抜けた。(一休みで)車寄せで一杯やった。細川右京大夫から三吉神五郎が見舞いに来た。洛中洛外の洪水は前代未聞である。小川や舟橋などで家が多数流され、大勢が死亡したようである。下京で家が流され、四条の大鳥居が流失、四条五条の橋が流れ落ちた。比叡山の黒谷坊はすべて流されて多数の死者が出たそうだ。その他比叡山の50の坊が壊れたらしい。鞍馬寺の大門が流され、威光坊、月生坊が流され、その他民家が全て流された。摂津の民家も全て流されたそうである。死者の数は知れず。洛中の小路は水に浸かって、板戸が浮かんでいる。賀茂の末社、貴船社も全て流された。嵯峨の廣澤の池が平地になり、山も川も一度にすっかり変わってしまった。どうもこうも言いようがなく、文章で表しようもない状態である。村々もところどころ流されて破壊されたところは数知れない。(言継卿記)
10日 (鴨川の)河原や下京まで白光院と一緒に見に行った。四条の道は酷いことになっていた。下京の家はすべて水没、住民は方々へ逃げた。いいようなないほどである。今日和泉の堺の舟が東寺の前に着いたという。前代未聞だ。でも、三井寺は雨も降らず水も出なかったそうだ。実に不思議なことである。(言継卿記)
竹林征三と中済孝雄による『野洲川の歴史洪水とその惨状に関する調査研究』( 土木史研究 第15号1995年6月)によれば、『江源武鑑』も引用に値する史料とされていて、「天文13年7月またもや大雨となり、29日 再び戸田堤の決壊により、人々は誰言うことなしに戸田堤は悪霊にとりつかれた「魔の口」と呼ばれ恐れられた。(中略) 戸田の地主で庄屋の奥野忠左衛門は荒れ狂う野洲川の怨霊を鎮めるならばと娘の愛を人身御供として、堤防に掘られた穴に人柱として捧げた。それ以来、堤防の切れは逃れ、戸田郷にも平和な年月が続いたと言われる」という伝承を紹介しています。
実際は地元の庄屋が資金を出して土木工事を行ったのでしょう。なお、この川の上流の甲賀界隈は古代から神社や仏閣のための木材の供給地で、乱伐による山の荒廃で花崗岩質の土壌によって天井川となり、ひとたび堤防が決壊すると大きな被害が発生する状況が整っていたそうです。いわば人災が繰り返されていたのであって、昨今の各地の水害の原因と大差ありません。
このように少なくとも洪水などの災害についての記述については、『江源武鑑』の記述は事実であると考えられます。このように日本史の専門家の間では忘れられている書物も、別の分野では正当に評価され学術論文に引用されているのはなかなか興味深いことです。しかしながら、水害の記述が資料や史料でいつも附合できるわけではありません。例えば『江源武鑑』では、
永禄6年(1563)5月の条で、
5月15日から22日までの8日間、昼夜四五時間を除いて雨が降り続き、河内の半分が水没して人が6千人余り死亡した。京都の賀茂川の流れも大きく広がって、京都の東側の町の22町が流されたり浸水したりした。この国の水害の被害は休みなく続いているが、琵琶湖も満水になり、あちらこちらの970カ所で川の堤が決壊する損害は前代未聞である。
とあります。しかし、『言継卿記』では、同15日から22日まで晴天とあり対応しません。一方、同記の永禄7年7月の条では、
2日 洪水だったので、早朝林中を見舞った。無事だった。正親町の小川が河のようになっていた。昼前に梨門たちと川を辿って様子を見に行く(現在の紫明通りの辺りか?)と鴨川の東側が海のようになっていた。どこも大洪水らしい。
とあります。しかし、『江源武鑑』では、同年6月、
朔日から月末まで迄雨が一滴も降らず干ばつ。琵琶湖の水が1丈あまり干上がった。病気が流行って5畿内で人が大勢死んだ。
と全く逆の災害が記されています。なお、中嶋氏や竹林氏らの論文の年表にも、これらの水害に該当するものは見つかりません。いずれの年表にも、12年以上ある永禄期に水害の記録が全くないのは不自然です。
さて、『江源武鑑』の天文21年(1552)6月の条には、
10日 早朝砂石が降り草や木がことごとく被害を受ける。 噂では信州浅間山が数日間激しく噴火したため諸国で同じような事が起こっているという。(江源武鑑)
とあります。しかし、『言継卿記』には記述はありません。気象庁の解説 によっても、天文年間で浅間山が噴火した記録は、天文3年(1532)に『噴火』とあるだけです。もし、『江源武鑑』の記録が正しければこのリストに加えられるでしょう。
ところで『江源武鑑』を読むといろいろな怪奇現象についての記録があります。観音寺城から琵琶湖の向こうには比良山系が望めます。また、北方面には伊吹山があり、それらの山や神社などが時に鳴動したり、火が立ち昇ったりしたようです。これが本当かどうかなど調べようもないわけですが、元号が変わった弘治2年2月、言継は次のように記しています。
17日 ゆうべ深夜のこと吉田神社が鳴動したという。また今日は吉田神社の馬場に鹿が傷もないのに死んでいたそうだ。どうも奇怪なことである。何事だろう。怪しい、怪しい。
京都には多くの神社仏閣がありますが、特に吉田神社と特定されるとやはり非常に場所が限定されます。吉田山全体に何か異変があったのでしょう。こうなると、『江源武鑑』の記述も現実味を帯びてきそうです。今と違って光のほとんどない広い琵琶湖の湖上に、山鳴りとか地鳴りが響いたのでしょう。今でも耳をすませばそんな音が聞こえているのでしょうか? 当時と今とでは、騒音のレベルの差はどれほどのデシベルでしょう。
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