10 余談:E=mc2のクレジット

投稿日 : 2021.07.13


アインシュタインの式として有名な関係式E=mcのクレジットは実はアインシュタインにはないという説があります。これほど影響力のある数式ですので、これには色々な歴史がありそうです。ここではこの説について眺めてみます。

この事情は次の二つの論文に説明されています。

L.B.Okun, Usp. Fiz. Nauk 158, 511-530 (1989), “The concept of mass (mass, energy, relativity)”

H.E.Ives, J.Optical Society of America (J.O.S.A) 42, 540-543 (1952), “Deviation of the Mass-Energy Relation”

最初の論文によれば、この関係式の意味を水素原子の例によって説明しています。

水素原子(質量M)は一個の電子(質量me)と陽子(質量m)からできています。しかし、Mの方がmeとmpの和より大きいのです。というのは、静止している水素原子の持つエネルギーMcには、mec2+mpc2だけでなく、電子が陽子の周りに引き寄せられているエネルギー(束縛エネルギーと呼ばれます)と、電子が陽子の周りで動いている運動エネルギーが含まれています。

そこで、Mとme+mpの質量の差(質量欠損)が、それらのエネルギーになっています。したがって、そのエネルギー分をEとすると、質量の差の分をmと書けば、換算式として、E=mcとして表現されるわけです。ですからこの式にあるmはそういう静止質量をもった何かがあるわけではありません。核分裂や核融合の解説で登場するアインシュタインの式に含まれるmはそういう意味を持っています。

ロシアのレベデフ(P. Nikolaewitsch Levedew,1866-1912)は1899年に放射圧(光の圧力)を測定してマックスウェルの電磁場の理論を実証した実験を発表しました。

その翌年のこと、フランスのポワンカレ(Jules-Henri Poicare,1854-1912)は、放射圧と光の運動量についての理論を次の論文で発表しました。

H.Poicare, Arch.neerland sci. 2, 5,232(1900),”La theorie de Lorentz et le principe de reaction, (The Theory of Lorentz and the Principle of Reaction)”.

ここでポワンカレは質量μの物体が光を放射したときに受ける反作用によって動く速さをvとして、運動量保存則をμv=S/c2 と表しました。ここでSは光の運ぶエネルギー密度Eに光速cをかけた量です。つまり、μv=S/c2 =(E/c2 )cと書けるわけです。この式を見ると、E/c2が質量を表すと見ることができます。そこでこれをmと書けば、E=mcとなります。この意味は「物体が光を放出して失ったエネルギーが質量の変化に換算できる」ことを表しています。

ポアンカレは1904年に、彼の考えた相対性原理に基づいた運動量保存則から、同じ結論を導きました。一方、アインシュタインは上で引用した論文を翌年に発表しましたが、その中で一つの思考実験として、重力場の中での物体の運動による重力ポテンシャルの変化として同じ結論を導きました。彼は、ポアンカレの理論を引用しませんでした。

しかし、この思考実験による説明は、ポアンカレの論文を意識して書かれたようにも読めます。もし彼がポアンカレの論文を引用すれば、そのような思考実験をわざわざ考えなくても物体の持つ重力ポテンシャルの違いをエネルギーに換算できると考えれば済んだことではないでしょうか。

前述のパウリの教科書では、どうもE=mcについてのポアンカレの寄与については記述が曖昧に見えます。若いパウリがアインシュタインに忖度したとは思えませんので、恐らくこの原稿を吟味して出版にかかわった誰かの意志が働いているのかも知れません。

上の二つの論文によれば、当初E=mcとE=mcの違いについて、アインシュタインはその点について十分考えがまとまっていなかったそうです。したがって、やはりE=mcのクレジットはアインシュタインにはなかったのではないでしょうか? 

補遺:アイヴィス(Herbert Eugene Ives, 1882-1953)はAT&Tベル研究所でファックスやTVの開発の責任者として活躍した人物です。また一方、特殊相対性理論で予想される時間の遅れを検証する実験も行ないました。彼はその実験結果の解釈として相対論を否定したのですが、実はその実験こそが時間の遅れを検証するもっとも確かなものだったということです。なお、モスクワのレベデフ物理学研究所の名前は上で引用したレベデフに因んだものです。