14 余談:ミレーバ・マリッチ・アインシュタイン
投稿日 : 2021.07.18
アインシュタインは1905年に特殊相対論の論文を発表しましたが、ローレンツも一年前にローレンツ変換式を発表しました。しかし、アインシュタインの論文には引用文献がなく、ローレンツの理論については何も書かれていません。パウリの本によれば、「アインシュタインは知らなかった」とあります。
アインシュタインの論文には唯一彼の親友のM.ベッソ(Michele Angelo Besso ,1873 –1955)への謝辞が書かれています。つまりベッソはこの論文についてアインシュタインといろいろ意見を交わしたはずです。ローレンツは、1904年に発表した論文の前にも、多くの論文を発表していた有力な学者なので、本当に二人はローレンツの研究を知らなかったのでしょうか? これについては今でも科学史の研究者たちはいろいろ考察を続けているようです。
もう一人アインシュタインが特殊相対論や一般相対論をつくる上で大きな役割をしたのではといわれている人物がいます。彼のチューリヒ時代の学友で、最初の妻となったミレーバ(Mileva Marić、1875-1948)です。彼女がアインシュタインと別居し、晩年を過ごした家が今もスイスのチューリッヒに残っています。その家は中央駅から左前方にある急な坂道を登ったHuttenstrasse62にあり、しばらく前、旅行中にこの家を訪れました。写真はその時撮ったものです。
この家の入口にはプレートがはめ込まれ、次のように記されています。
ミレーバ・アインシュタイン-マリッチ
1875-1948
現在のETHの前身チューリヒPolykumで物理学を学ぶ。相対性理論を(アルバート・アインシュタインと)共同で構築した。
アルバート・アインシュタインの妻、 3児の母。ミレーバ・マリッチはセルビアのTitelで生まれ、Polykumでアルバート・アインシュタインと共に物理学と数学を学んだ。娘が生まれたあと1903年に2人は結婚した。1901 年3月、アインシュタインは、「もし、僕たちが一緒に相対運動の仕事を完成できたらどんなに幸せで光栄なことだろう!」と彼女への手紙で述べている。 1919年に離婚してから、彼女はこの家をアインシュタインのノーベル賞の賞金で購入した。1948年、彼女はひっそりとチューリッヒで他界した。
チューリヒ聖母寺院協会寄贈 2005
ミレーバはイタリアのコモ湖でのアインシュタインとのデートで女の子をみごもり、Lieserlと名付けられましたが、生まれつきの重い障害によって、結局両親を感じることもなく亡くなりました。アインシュタインはその娘を認知しなかったそうです。
この娘を徹底的に追った書物があります。Michele Zackheimの’Einstein’s Daughter” The Search For Lieserlです。邦訳されていないようですが、アインシュタインの私生活やミレーバの人柄など、アインシュタインの伝記とは相当違った角度から考察がなされています。
この書物によれば、俗に奇跡の年といわれる1905年頃は、前年に長男のハンスが生まれ、スイスの特許庁で正規雇用された時期で、光電効果やブラウン運動、特殊相対論、mc2などについての、現在の物理学の基本になる重要な論文を相次いで発表した時期で、二人の関係はまあまあの状況でしたが、ミレーバがアインシュタインと学問の話で議論できるような状況ではなかったように読めます。
また、1915年から16年の頃は二人はすでに別居して、かなり深刻な状況が続いていた時代です。彼は一般相対論の論文を書いた後、すこし疲れが出たそうですが、すぐに回復して、妻に離婚を再び促したとあり、その目的は、彼の後妻になるエルザと再婚したかったためだとあります。そんな時に二人が学問で協力をすることなどありえないので、上のプレートの記述と現実とには違いがありそうです。
同じ著者によるエッセイ「My Friend Evelyn Einstein」もアインシュタインの家族の話として興味を持たれる読者がおられるかも知れません。イヴリン・アインシュタインはハンスの養女で、ひょっとしてアインシュタインの次女だったかもしれないという人だということです。彼女はそれを実証する前に亡くなりました。
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