32 余談 日時計お爺さん

投稿日 : 2021.09.30


アスペと一緒にEPRの実験を成功させたグランジェさんという研究者のレーザー装置を使わせていただいたことがあります。どうしても急いで試したいことがあったのですが、それに使うレーザー装置が買えずに困っていたときに、筆者たちと共同研究をしていたある方の紹介で、パリに出かけて使わせていただいたのです。

その時、ある印象深い出来事に出会いました。それは物理学の研究や彼の研究室のこととは全く関係のない、滞在していたホテルでの出来事です。

そのホテルはパリの郊外の大学や研究施設が集まっている地域にありました。住宅街にあって、どうみても投宿客がいそうに見えない薄汚れたホテルでした。ホテルの玄関の前には日当たりのよい狭い車寄せがあり、天気のいい日にはいつも品のよさそうな爺さん(40年ほどの前の話ですから、今の筆者と同じ年ごろだったのではないかと思います)が椅子を持ってきて一人で日向ぼっこをしていました。

実験室から昼間に宿に戻ることがあると、その爺さんは日の当たる場所へ椅子を移動して相変わらず座っていました。筆者は「日時計爺さん」とほほえましく眺めていました。

さて、夜が更けると、ホテルの地下室が異様に騒がしくなり、諍いとともにワインの瓶を叩き割る音もしばしばします。あまりに気になるので、ある夜更け、そっと見に行ってみました。

床にはワインやグラスの破片が散らばり、ホテルのメイドさんが無機質に掃き集めていました。部屋の奥を恐る恐る伺うと、結構大勢の男女の罵声が轟いていて殺気が漂っています。恐れをなしてフロントに戻り、夜番のバイトの若者に尋ねると、「いつもだよ」と首をすくめました。「泊り客なの?」、「いや、近所の金持ちの年寄りがずっと泊っているのさ、家族は誰も来ないよ。こんなホテルいっぱいあるよ」 

あの日時計爺さんも、夜になるとこのように豹変するのではなかろうか? 

とても気になったものです。

当時日本はバブルで、六本木界隈が華やかに浮かれていた時代。いずれ来る老齢化時代に目をつむって無頓着に過ごしていた時代。

そして現在、このホテルの地下のような光景が日本の介護施設で起きているかもしれない。もっと悲惨なことに、高価な施設に入ることのできた年寄りたちが、ただの札束として無造作に扱われ、ワインの瓶をたたき割るエネルギーも奪われて抵抗できない状況で放置されていそうです。EPRの実験を考えると、いつも筆者の眼にはこの地下室の光景がダブって見えるのです。

そして、ジョナサン・スイフトの『ガリバー旅行記』には人が絶対に死なない国が出てきました。何百歳とかいう枯れ草のような物体が街の階段でうずくまっている。その風景を見たガリバーは、大急ぎでこの国を脱出しました。

あのホテルが今どうなっているか? コロナの流行でと、つい考えてしまいました。