37 実験家の工夫

投稿日 : 2021.11.09


物理学には、複雑な自然現象の中に潜んでいる基本原理や法則を、数学の力を最大限に利用して筋道だって見つけだす理論物理学と、うまいアイデアの実験方法を編み出して、それらを目の前に表して見せる実験物理学のアプローチがあります。研究者それぞれに好き嫌いや得手不得手がありますので、どちらがどうということはなく、どちらも新しい現象を発見したり理解する上でとても重要です。

さて、ゼーマン効果によって、原子の中の電子のもっている磁気モーメントを見積もりことができるのですが、その欠点は、分光学では複数の電子のエネルギー状態のエネルギーの差が得られるので、それぞれの電子状態のもつ磁気モーメントを直接個別に評価することはできません。そこで、なんとか個別にそれを測る方法はないものでしょうか?

36節で、(空間的に均一で時間変化のない)磁場の中で電子が磁場から受けるポテンシャルがequation(351).pngであることをのべました。ここでもし磁場が場所によって違っていたらどうなるでしょう? 

ここで何が起きるか、ピンときた読者がおられれば、研究者に向いた素質に恵まれた方のはずです。

空間的に不均一なポテンシャルでは勾配ができるので、ポテンシャルの勾配は力、そうだ電子は磁場から力を受けて、ポテンシャルの低い方へ向かうのではないか、しかも磁気モーメントの方向が違えば、その向かい方が違うはずだろう。

こうしてこの実験から磁気モーメントが測れるのでは? たとえば、磁場にx方向に勾配があると、y方向に飛んできた原子の電子はx方向にequation(352).pngのような力を受けるはずだ。そのためにはどんな装置を作ればいいのだろう? 

実験物理学の面白い所はこのあたりにあって、研究者が知恵を絞り、腕を試めす場面ではないかと思います。これを実際に試した人々がいます。

1921年、当時ドイツのフランクフルト大学の理論物理教室にいたシュテルン(Otto Stern 1888-1969)と同じ大学の実験物理教室にいたゲルラッハ(Walther Gerlach 1889-1979)は、不均一な磁場を使って電子状態のもつ磁気モーメントを個別に測定することに成功しました。これは今日シュテルン・ゲルラッハの実験と呼ばれて、大抵の量子力学の教科書に説明がありますのでここではこれ以上触れませんが、同様な方法で水素原子の電子のn=1状態の磁気モーメントを測定した次の論文の実験装置を紹介します。筆者は彼らの知恵と腕に非常に感銘を受けました。

T. E. Phipps and J. B. Taylor: Magnetic moment of hydrogen atom. Phys. Rev., 29(1927), 309 09da9c457372027c5c1e79ffaa1c028a6b0a1ea0.jpg

右の図はその装置のスケッチです。I,II,IIIとあるのは、一本のガラス管の図のようにくびらせたもので、それぞれの部分は水銀拡散ポンプといわれる真空ポンプで排気されていて、各部分の真空度は図に示した値に保たれています(1mmHg は およそ133Pa(パスカル)です)。一番下の部分は水素ガスが入った放電管で、両端のアルミの電極に高電圧を加えて放電させると水素原子ができます。放電管からIに流れ込んだ水素原子は、各部屋の間のくびれにつくった幅が0.075mm、長さが2mmほどのスリットの隙間を、真空度の高いIIやIIIの部分へむかって高速で通過します。IIとIIIの間にあるスリットの辺りに空間的に不均一な磁場をつくる電磁石が置かれています。(筆者はこのガラスのスリットの作り方に特に感心しましたので、その概要は後に示しました)

磁石に電流を流さないときは、水素原子はまっすぐに上の方へ飛んで、突き当りのガラス板にあたります。この板にはMoOという物質が吹きつけてあり、この物質は水素原子があたると還元されて色が変わるので、ちょうどフイルムに光があたると感光するように、水素原子が届いた位置が記録されます。

次に磁場があると磁場の無い時に中心部分に当たっていた水素原子の位置が左右に対照的に分離したことが記録されました。彼等は分離した線の位置と磁場の無い時に見えた線との間隔を測定し、水素原子のs電子の持つ磁気モーメントの評価から、電子には固有のスピンと呼ばれる性質による磁気モーメントがあり、軌道角運動量の磁気量指数mに相当する数が±1/2になることを検証しました。

この種の実験で磁場は主に軽い電子に働くのですが、それが重い原子もろともの運動の向きの変化として観測されるとは驚きですね。

補足:3カ所のガラスのスリットをまっすぐにそろえて配置する方法

上の実験では3か所のガラスのくびれに作ったスリットの位置をまっすぐに配置しなければなりません。彼らは次のようにしました。6cd0465bafcf59f65fd272624a8d03a7cb37450a.jpg

厚さが0.075mm、幅が2mmの鋼鉄のリボン(紫色の部分)を左の図のようにガラス管にまず通しておもりでぶら下げます。その後矢印のように両側からガラス管を溶かしてリボンにぴったりつくまで細め、ガラスを固めます。次に塩酸で鋼鉄を溶かすと、後にできたガラスの穴がまっすぐに並んだスリットになります。実際にスリットの幅や長さを決めるには試行錯誤があったはずで、このような工夫をするところも実験のおもしろさです。現在はいろいろ便利で高性能、高品質の器材がふんだんに入手できますが、非常にユニークで本質的な研究の成果は、今日でもこのように細部に職人芸的な工夫がこらされたもので得られることが多い印象があります。