40 余談:2光子分光、夜明けの景色
投稿日 : 2021.11.19
原子の分光学は量子力学の発展に大きな寄与をしただけでなく、その精密な測定によって電磁相互作用そのものの性質や、量子の統計的な諸性質を深く探る手段として今日まで息長く研究が続けられています。その成果の一つがレーザーの開発であり、またそのおかげで更に詳しい研究ができるようになりました。
分光学では、光のスペクトルからできるだけ正確に電子のエネルギーを決めることが基本です。しかし、前の節で述べたように原子の分光学では、試料となる気体の原子は、温度によっていろいろな速度で動き回っているために、光のドプラー効果によってスペクトル線が拡がって正しい電子のエネルギーを決めることができません。39で示した絵は、ドプラー効果を別のミクロな表現で示したものです。
しかし、1960年にルビーレーザーが実現し、その後引き続いていろいろなレーザーが開発されるようになったことによって、当時原子を研究していた研究者たちは、この光源を使ってなんとかこの困難を克服しようと模索し始めました。
2光子過程については、1929年10月にMaria Goeppertによって発表された短い論文が最初で、この論文では2光子過程として、ラマン散乱過程、2光子吸収、2光子発光の基礎理論が簡潔に示されています。しかし、1930年代というと、もちろんレーザーもなく、2光子吸収が分光学として実用になることはありませんでした。1970年代に入ると、ロシアのL. S. Vailenkoらがドプラー効果に邪魔されない分光法(ドプラー・フリーの分光法と呼ばれる)としての2光子分光の有用性を提案した理論を発表しました。これが原子の分光学に大きなインパクトを与えました。
ハーバード大学のブレンベルゲン(Nicolaas Bloembergen, 1920-2017)ら、MITのプリチャード(David Edward Pritchard、1941- )ら、パリのG.グランベール(Gilbert Grynberg 、1948-2003)ら、そして少し遅れてスタンフォード大学のT.ヘンシュ(Theodor Wolfgang Haensch、1941- )らという、その分野のトップレベルの研究グループ(これらの関係者には今日までに多数のノーベル物理学賞の受賞者が出ています)がナトリウム原子のドプラー・フリーの2光子分光を一斉に始めました。
詳しい話は抜きにして、彼らの研究の第一報が専門誌に受理された時期はすべて1974年の1月末から2月に集中しています。因みにMITの論文は1月23日、パリは1月28日、ハーバードは2月4日、そしてスタンフォードは2月26日でした。
一般に論文が受理されるまでには、投稿してから査読過程を経るので時間のかかるのが普通です。彼らの論文がそろってこの短い時期に集中するというのは、いかに彼らの間での先陣争いが激しかったかの証拠です。筆者はある理由からパリのグランベール氏に、その時の事情を手紙で尋ねたことがあります。彼からは非常に丁寧に簡潔にその時の様子を記した返事をいただきました。以下はその手紙を邦訳したものです。
『私たちは、1972年にドプラー・フリーの2光子遷移の研究を始めました。しかし、その頃、私たちには色素レーザー装置がなくレーザー分光の経験もなかったので、実際に実験を始められたのは翌年の始めでした。
当時全く違う研究の文献を調べているときに、偶然運よくチェボタエフ(V.P,Chebotaev)の理論の論文(筆者注:おそらくL. S. Vailenko, V. P. Chebotaev and A. V. Shishaev, Zh. E. T. F. Pis. Red. 12, (1970)161と思われる)に巡り会いました。それが動機となってJ. Physiqueに理論計算をして発表しました(私たちの最初のもくろみは理論と実験の論文を同時に発表することでした)。
私たちが最初の実験結果を得たのはその年の秋でした。しかし、それを発表するかどうか思案していました。というのは少し改良した方がいいに違いないと思っていたからです。
その年の12月も終わりの頃でした、ボストンから帰って来た同僚が、ブレンベルゲンとレヴァンソンが全く同じテーマの研究をしていると教えてくれたので、少し相談した結果、PRLに私たちの論文を出すことに決めました。(そうこうしているころにブレンベルゲンも同じような結果を得たので、このとき私たちが論文を出しておいてよかったということになったのです)
“Experimental Evidence of Two-Photon Transition without Doppler Broadening”,
F. Biraben, B. Cagnac, and G. Grynberg:Phys. Rev. Lett. 32, 643 – Published 25 March 1974
私たちとハーバードの実験は定在波を原子気体のセルに通すものでした。一方、D.プリチャードは原子ビームに進行波を通す方法でした。彼の場合は幾何学的条件からドプラー効果は抑えられました。そして、CWレーザーを使っていたし、2光子分光としては優れていたので大きな反響を呼びました。
T.ヘンシュは私たちの理論の論文をよく知っていました。彼はまたプリチャードの実験も噂で知っていたようです。彼は定在波を原子気体セルに通す方が、実験が楽だとすぐに判断しました。そうしてSpectra Physics社のレーザーを借りて、なんと一週間もかからずに実験を成功させました。(筆者注:この借りて云々というところのヘンシュの心理は、筆者にも実体験としてよくわかります)
これが少なくともパリからみた当時の論文発表に至る経緯の全貌です』
グランベール氏の話から、最先端の現場の研究者たちの実像が伺えます。研究者にとって研究は趣味ではなく生業ですから、研究成果は論文として記録に残さなければ仕事をしたとは認められません。しかも、その成果には新しい知見が含まれていなければ、そもそも研究をする価値がありません。しかし、新しい知見は無数にあるはずですが、その時期その時期に応じて研究にも流行があり、時流に沿ったおいしいテーマがそんなに多くあるわけではありません。そうなると、一つのテーマに複数の研究者が殺到し、獲物を狙う獣のように成果の争奪戦、つまり先陣争いが繰り広げられるわけです。
この場面は二番煎じで生きていく世界に甘んじる研究者には味わえない、生きるか死ぬかという程ではないにしても、なかなかスリリングな刺激的な経験になります。
幸いなことに、人はそれぞれ違いますので、同じテーマでもアプローチが人によって違うので、まったく同じ結論にはならないものです。
そのおかげである程度先陣争いの勝負が決した後は、お互いノーサイドで互いの成果を認め合って、再び次の獲物に向かって鼻を利かし始める、この刺激を体験するには普段からいつでも猛ダッシュのできる興味と気力と体力が必要で、急に獲物が現れてからでは間に合わないわけです。そしてそこで焦っても二番煎じがいいところで、そこに引用文献の不適切さや、データの改ざんやねつ造という落とし穴が潜んでいるかもしれません。
さて、ここからは専門的な筆者のメモです。筆者がグランベール氏に手紙で問い合わせた本当の理由は別の事でした。専門の筋にはよく知られているように、電磁相互作用のゲージの取り方は複数あります。どのゲージを使うかは適当に使い分けるわけですが、2光子過程の効率を定量的に計算するとき、ゲージの取り方で違いがあるという理論*があります。そのことについて彼の見解を伺ったのです。彼の答えは光学遷移の中間状態の考え方として参考になります。
*例えば ”Choice of Gauge in Two-Photon Transitions: 1s−2s Transition in Atomic Hydrogen”, F. Bassani, J. J. Forney, and A. Quattropani, Phys. Rev. Lett. 39, 1070 – Published 24 October 1977
『私の考えでは、違ったゲージを使って2光子遷移を計算するときに中間状態を経由して遷移すると考えるのは、物理を簡単に説明するためのだけのことで、実際に物理的な意味があることでは全然ありません。一つのゲージではある特定の中間状態の電子準位が、また別のゲージでは別の準位が主に効くように見えます。これについては私の論文の(ii)p.324と§3.6の325-327頁ですこし述べています』
つまり方違いで立ち寄るお寺は、馬で行くか、牛車で行くかで違ったお寺に行くように見えても、しょせん目的地ではないのでどうでもいいということです。
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