足利義輝の自殺
投稿日 : 2022.02.17
永禄8年(1565)5月、高敦は次のように記しています。
15日 応仁、文明以来、世は戦乱に明け暮れ、足利将軍家は分裂して弱体化が進んで権力は菅領の細川家に移ったが、こちらも脆弱で細川の老臣の三好家が実権を握ってしまい、細川晴元の代では菅領職も名ばかりになってしまった。しかし、三好家も長慶が亡くなった跡を継いだ左京太夫義継は若く、三好一族の3人(三好三人衆)と、義継の付き人で執事だった松永弾正少弼久秀らが手を組んでクーデターを起こし、今日(定説では19日)足利義輝を暗殺した。義輝の弟、一乗院門主覚慶(後の足利義昭)は近江の矢島に逃れて密かに兵を挙げることを計画したという。(三好三人衆とは、三好日向守長逸、三好下野守政康、岩成主税助友道を指す)
これだけでは将軍が三好三人衆らに殺される直接の動機がわかりません。その理由らしい記述が『江源武鑑』に見つかります。
13日 京都の六角館から使いがきて、「三好家で四国の管領職を巡って諍いが起きた」と伝えた。三好日向守、同下野守、同山城守の3人と三好左京太夫義継が四国の管領職をめぐっての抗争である。義継は長慶の嫡男なので管領職を継ぐと思われたが、今年の3月に将軍(義輝)は山城守に四国を治めさせ、管領職も任命した。ところが先月の20日に、山城守の息子が将軍に嫌われて父親も出仕を止められた。義継はここはチャンスだと上洛して四国の伊予の宇摩郡、宇和郡、喜田郡、野間郡、桑村郡の六つの郡を将軍に差し出したので、将軍は彼に管領職を与えた。山城守方は不服を申し立てたが認められなかった。そこで、山城守、下野守、日向守は妙心寺に出家して、それぞれ、笑岩入道、釣閑入道、釣垂入道となって将軍から離れた。また、松永弾正少弼と岩成主税助、松山なども出仕を止めた。
観音寺城から京都の六角館に常駐させていた馬淵想兵衛尉高盛から10日に、「日向守と下野守が四国から兵を少しずつ都へ送り込んでいる」という知らせが観音寺城へ届いた。そこで、屋形は将軍にそのことを伝えるために浅井下野守祐政(久政)を派遣した。
12日、浅井下野守が将軍の密書を持ち帰った。中身は分からないが、彼が報告したことには、将軍は「根拠のない噂に過ぎない」と述べたという。屋形は「愚かな考えだ」とだけ述べた。
屋形は13日、進藤、目加多、青地、高嶋、朽木、馬淵、京極、蒲生、浅井、平井、永原、伊達、楢崎、池田、吉田、山岡、黒田を観音寺城へ招集して、三好が将軍を裏切る計画があるので近日中に出撃して三好方を討とうと提案した。しかし、京極が「実は箕作の佐々木六角義賢父子が三好山城守と結託して天下を狙っているので、軽率に上洛しない方がよい。三好は天下を乱しているが、まずはこちらの軍備を整えてこそ上洛もできるものだから、ここは踏みとどまった方がよい」と忠告した。一同尤もだということで、屋形も納得して出陣を取りやめた。ところが屋形の母の青樹院はどうしてもといって家来とともに上洛し、「この状況なので私は自殺することになるだろう」という悲痛な知らせを伝えてきた。屋形は八幡山の典厩(左馬頭つまり佐々木左馬頭義政 )の息子の川端左近太夫輝綱 に甲賀の八人衆をつけて、500騎を将軍の警護のために上洛させた。
ところが続いて『江源武鑑』では、14日に、三好山城守(笑岩入道)が箕作承禎父子へ派遣した飛脚を和田和泉守(/南北諸士帳-9-甲賀郡/:和田山城の和田和泉守貞国)が拿捕したと観音寺城へ報告した。飛脚の運んでいた14日付の手紙には、「かねて右衛門督(承禎の息子)と内々に相談していたことを急遽近日中に実行に移す。しかし義秀は将軍の親戚だからは必ず上洛するだろうから、そちらも後を追って上洛して彼らを挟み撃ちすることを考慮してほしい。急ぎ連絡する。よろしく」とあり、差出人は、三好日向守入道釣垂、同下野守入道釣閑、同山城守入道笑岩であった。そこで屋形は旗頭たちと相談したところ、進藤山城守は「まず箕作を落としてから上洛して将軍と一緒に三好を滅ぼすべきだ」と述べた、しかし、浅井備前守長政は「箕作を攻めると近江が乱れて承禎方に付く旗頭も出て大変な戦いになるので、上洛はやめた方がよい」と進言した。そこで屋形は上洛を中止した」とあります。更に同書は、
15日 屋形は進藤山城守を箕作城へ行かせた。しかし承禎父子は病気だとして会わなかった。一方、この日の深夜、(承禎の息子の)義弼は兵を率いて上洛し三好勢に合流した。
17日 三好山城守から箕作の館へ使節が来たが、用の向きは不詳である。
18日 屋形(義秀)は六角館に三好の動向を探るために使いを送った。
と記しています。
なお、このように三好方が行動を急ぐことになった理由と思われる話が、『浅井日記』に見られます。それによれば、
将軍家は佐々木義秀、武田大膳義統、丹後の一色義継に三好討伐のサポートを求めた。ところが佐々木承禎の長男の義祐(弼)は三好義継の姉婿なので、この将軍の動きを三好に伝えた。それで義継や松永らは急遽兵を挙げて19日の早朝に将軍緒御所を急襲し、将軍義輝は自殺、母の慶壽院も自殺した。将軍は30歳だった。
とあります。『言継卿記』には当日の様子として、
19日 辰の刻、三好と松永右衛門佐などが1万の軍勢で突然将軍の御所へ乱入し、将軍を包囲して戦いが起きた。奉公衆が多数討ち死んだという。将軍は正午ごろに自殺した。不可説、不可説、先代未聞の事である。阿波の将軍が上洛するらしい。将軍の御殿は放火され、春日殿も焼けた。慶壽院は残っているそうだ。小袖の唐櫃は、伊勢加賀守貞助が警護し禁中での保管を依頼した。討ち死んだ人は、将軍、鹿苑寺殿、慶壽院殿、畠山九郎(19歳)、大舘岩石(10歳)、上野兵部少輔、同輿八郎、摂津いと(13歳)、細川宮内少輔、一色淡路守・・・進士美作守、同主馬頭・・・その他、慶壽院殿内衆、春日局内衆。三好・松永勢の戦死者と負傷者は数十人という。
と記されています。
このように将軍義輝は三好方に殺されましたが、ここで筆者が不可解に思うのは、この事件での義継の立ち位置です。『浅井日記』では、義継も将軍襲撃に参加しているとあり、『言継卿記』にある「阿波の将軍が上洛するらしい」というのが、義継のこととしますと、彼は戦闘に参加していないが三好一族の行動を黙認していた風にも読めます。ところが義継は、将軍に管領職を任命してもらっているので、将軍を討つ理由がわからなくなります。この点を考える種が『江源武鑑』に見られます。
19日 早朝、使いが帰ってきて、「三好が裏切って将軍が他界した」と伝えた。それによると、「卯の刻に三好山城守入道笑岩、同下野守入道釣閑、同日向守入道釣垂、松永弾正忠通(久)秀、息子の右衛門佐(久通)、岩成主税助、松山新入松謙ら1万3千騎が二手に分かれて将軍の御所を攻撃した。大手からは三好山城守と松永衆など7千騎、これに対する防戦衆は、長岡主殿頭、細川三河守・・一色淡路守・・など38人など400程に過ぎなかった。鎌倉門へは三好日向守、下野守、岩成、松山ら6千騎、これに対して防戦は上野兵部少輔など350程度だった。(ここで御所内での戦闘の様子が細かく記されて)結局将軍は自害、介錯は河端左近太夫輝網が行い、首を敵にとられないように火に投げいれて自分も自殺した。母の慶壽院は将軍が自害したのを聴いて、火に飛び込んだ。女中40人ほども火に飛び込んだという。
続いて義継の話が書かれ、
三好義継は三本木(現在の烏丸丸太町のすぐ東にある三本木)で山城守(康長、笑岩)を討とうと戦っていたが、寝返る者が多く御所から火が上がったのを見て河内の若江城へ退き、奈良の一乗院門主(後の足利義昭)を捕えようと奈良へ向かった。
この話によれば、義継は当初将軍方として行動していたのですが、形勢不利とみて一旦撤退し、今度は保身のために三人衆方へ鞍替えしたと思えば、全体の流れが自然に見えてくるように思えます。
ところで、義輝が襲われるのを察して上洛した義秀の母の青樹院とは誰でしょう?ネットで見る限りこの名前は見つけられませんでした。ただ、彼女の悲痛な叫びによって義秀は川端左近太夫輝綱らを将軍の警護のために送り込んだが、『言継卿記』にある鹿苑院内衆の戦死者の中に河端兵部丞の名がみつかります。南北諸士帳には、この人が「室町義照公生害時討死」とあります。つまり、両者は同一人物と思われます。
となると、義秀の母の青樹院は言継の記した鹿苑寺殿とは同一人物となり、彼女が予感した通り、彼女もこの時に亡くなったことになります。このことは『浅井日記』からも推測でき、『義秀の母と武田義統の妻はいずれも足利義晴の娘で、姉妹である』とあります。つまり彼女たちは将軍義輝と同じ慶壽院の生んだ子供たちということになります。したがって義秀の母は、義輝の危機に際して我が身を忘れて御所へ駆けつけたという訳と思われます。
『江源武鑑』には将軍御所の襲撃は1万五千騎が参加して、それに対する将軍方は400騎程度だったとあります。となると、この軍勢は義秀の派遣した援軍が500騎とあったから、ほぼ彼らだけが主に御所を警護していたことになり、将軍自身は無防備だったことになります。『明智軍記』には「これまでは都は平穏で将軍も用心していなかった」とあり、義秀が「将軍の考えは愚か(甘い)」といったこととも符合します。要するに将軍サイドは三好方を甘く見て油断していたことになります。
ここでもう一つ不思議なことは、義輝が自害した時に母親の慶壽院も自殺したことです。
『上杉本洛中洛外図屏風発注者 近衛氏の生涯』を記した小谷氏 によれば、彼女は実質的に義輝政権を担っていた人だそうです。しかし、彼女には義輝の他に二人の息子がいて、彼らの生死が分からない段階で自殺するものでしょうか?
近衛家は家族の結束が非常に固かったという小谷氏の話に照らすと、彼女が動転しての事だったとか、 長男だけを寵愛していたとかいうよりは、やはり将軍を裏で操っていた陰の実力者の母親を消すことが、三好側から見れば最初から義輝襲撃のシナリオの中でセットされていたと思うのが自然です。しかし、世間は当然慶壽院に関心が集まっただろうから、当時のタブーであったと思える母殺しという汚名を避けたいために、このような彼女の最後の様子が喧伝されたのではなかったでしょうか?
この事件のその後の経緯について『言継卿記』は次のように記しています。
21日 三好日向守長逸が禁裏へ挨拶に来た。小御所の庭で天皇から盃を受けた。明日奉公衆や奉行衆がすべて三好・松永に服従する。慶壽院の上臈が自害、しかし死亡せず。
23日 早旦、三好衆、松永金吾らが一条寺をすべて破壊した。地下人はすべて退散し、焼き尽くされて、竹や木が伐採された。
24日 将軍の近臣の林阿彌が今朝死んだ。付き人たちは松山に捕えられて知恩院で殺された。痛ましいことである。尤不可説、々々々。慶壽院殿の子供が死去とか。
クーデターの頭目が挨拶に禁裏へ来たということで、これを見れば禁裏は娑婆の争いはどうでもよくて、誰でもwelcomeというしたたかなスタンスにみえます。 そして、禁裏では25日、「郭公」、「五月雨」、「名所旅泊」というお題で定例の歌会が催されて、こんな句を言継は書きとめています。
山よりも 空に名たかし 夕暮れの 聲めつらしき ほとゝきすかな
いかなれば 時こそ有りけれ 五月とて かならす雨の 日数ふりぬる
またなれぬ 方のみ見つの とまり舟 行ゑをとふも しら波の聲
これらにどのような裏の意味が隠されているのかは筆者にはわかりませんが、「行方を問うも・・」は、高級官僚である言継にとっては、どうなろうと自分には関係ない、という意味でしょうか?
『江源武鑑』には、この事件が起きる一ヶ月ほど前の4月22日の条に、「この頃、洛中にて不思議なわらべ歌が流行った」とあります。
あしかかの あしないよにもなりぬれは えたはちりちりちって いきさきは いきさきは
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