東大寺大仏殿の焼失 (堕落しやすいDNA)
投稿日 : 2022.03.14
永禄10年(1567)10月、高敦は東大寺の大仏殿の焼失について次のように記しています。
この頃、三好の嫡家、左京太夫義継はまだ若く、一昨年(永禄8年)来、彼と彼の家来の松永弾正少弼久秀は、三好日向守長縁入道北斎、同下野守政康入道釣閖、同山城守康長入道笑岩、岩成主税助左通、松山安芸守、篠原右京進場長房らとの確執によって数回戦いが起きていた。今晩、久秀は奈良の大仏殿の敵(三好三人衆)の陣地を夜討ちして300人ほどを斬り殺した。このときに大仏殿も含めて(東大)寺は焼失した。このように蕭牆(うちわもめ)で毎日戦いが起きていたので、先の将軍の弟、一乗院門主覚慶は越前で世俗に戻り、朝倉義景を領代として元服式を終えて義昭となったが、彼が逆臣を討伐しようという企てがあるというので、三好(義継)と松永は、軍を北国に向ける相談をしたが成功せず、むしろ久秀が義昭へ内通したという。
これだけではこの事件の経緯が十分わからないので、『言継卿記』などによって、この事件を肉付けしてみます。話はその年の正月にさかのぼります。言継は次のように記述しています。
永禄10年正月、
5日、摂州の武家の従五位下源義栄が今日左馬頭に任じられた。消息宣下という。
この義栄は三好長慶の長男で、将軍を継ぐ予定だったという三好義継に対抗するために、三好三人衆が擁立した人物です。ここで消息宣下とは、池享氏の『戦国期の朝廷政治』 によれば、大掛かりな儀式を伴った正式の任命ではなく、簡便な書類選考のようなプロセスによる安上がりの任命のようです。この任官システムは、昔は戦時での応急的な処置だったものが、時代が下ればルーチンになって、とにかく早く任官して権威付けをしたい武家が当時多いので、申請を手軽に受理して手数料を取るという禁裏のビジネスになっていたようです。
ところがこの任官に対して、三好義継サイドは当然面白くない。言継は当時の状況を次のように記しています。同月、
17日 昨日、松永弾正少弼衆が蜂起して、三好方の池田(勝正)が敗れたという。三好日向守、同下野守。岩成主税助は堺にいるという。池田側は75人が殺されたという。また、大きな戦いになりそうだ。ばかばかしいことだ。
言継は、三好の関係者たちの内輪もめを完全に見下して、「馬鹿じゃない」という彼の本音が零れています。そして3月、
7日 昨日松永弾正少弼らは堺を攻撃した。三好左京兆(義継)らは志貴(信貴)城へ入ったらしい。松永勢は河内方面を焼いた。
14日 南方の騒ぎによって山科七郷衆が禁裏の警護を固めた。
更に7月になると、戦場は奈良の東大寺に及び、
24日 一昨日東大寺で合戦があったそうである。三好衆は20人ほど、松永衆は5人が討たれたという。戒壇院が焼失したそうである。
8月には、
5日 根来(ねごろ)寺の衆がここ数日前に松永弾正少弼に加わり、和泉へ8千人ほどの軍勢で攻めた。和泉の井戸、郡山の辰巳らも加わったという。
そうして、ついに10月、
11日 昨夜、奈良の東大寺の大仏殿が炎上した。三国一の伽藍で嘆かわしいことだ。不可説。中村など数十人が討たれた。東大寺に籠っていた衆(三好三人衆)が敗北した。その他の衆は無事だった。松永弾正少弼久秀が朝にやったそうである。12日 奈良の事件で都は一晩中大騒ぎとなった。
まさかそんなことまでするとは! さすがに言継も呆れたのでしょう。
しかし、最近は「まさかそこまでは」ということが起こされています。
閑談:東大寺講堂跡
筆者は大仏殿が焼失した事件を思う時、大仏殿の裏にある講堂跡を訪れた時のことを思い出します。この講堂はその昔は大勢の学僧が修行や経文の勉強をしていた総合大学のような機能を持っていたようです。実際、山本栄吾氏の論文『東大寺講堂院の平面復元 』によると、講堂の北側には三面僧房と呼ばれる二重構造のコの字型の学僧のための居住区があり、約4.3メートル四方の区画が単位となって140部屋、その半分の広さの部屋が36部屋あります。一部屋の定員はわかりませんが、少なくとも全部で千人単位の人が住んでいたようです。
この施設ができたのは、大仏が開眼した勝宝4年(752)頃で、延喜17年(917)に一度全焼しました。しかし、わずか18年後の承平5年(935)に再建され、今度は治承4年(1181)に平重衡によってまた焼かれました。その後、仁治3年(1242)に再建されたましたが、永正5年(1508)年に又全焼、その後再建されることもなく、今日まで礎石だけが残された遺構となっています。ということは、東大寺の戦いの際は、この場所は空き地だったことになり、これが幸いしたのか、すぐ隣の正倉院へ火が回らなかったのは奇跡でしょう。ここで和辻哲郎の有名なエッセイ『古寺巡礼』(岩波文庫 青144-1)の一節を思い出します。
『なお 大仏殿のうしろには、大講堂を初め、三面僧房、経蔵、鐘楼、食堂の類が立ち並んでいる。講堂、食堂などは十一間六面の大建築である。 そこには恐らく幾千かの僧侶が住んでいたであろう。そのなかには講師があり、学生があり、導師があり求道者があった。彫刻、絵画、音楽、舞踏、劇、詩歌・・・そうして宗教、すべて欠くるところがなかった。わたくしは中門前の池の傍を通って、二月堂への細い樹間の道を伝いながら、古昔の精神的事業を思った。そうしてそれがどう開展したかを考えた。後世に現れた東大寺の勢力は「僧兵」によって表現せられている。この偉大な伽藍が焼き払われたのも、そういう地上的な勢力が自ら招いた結果である。何ゆえにこの大学が大学として開展を続けなかったのだろうか。何ゆえこの精神的事業の伝統が力強く行きつづけなかったのであろうか。「僧兵」を研究した知人の結論が、そぞろ心に浮かんで来る、【日本人は堕落しやすい】』
和辻の挙げた教科は、すべて今日の大学受験科目として重視されている「5教科」以外です。その施設が再建を見なかったのです。
当時、読み書きソロバン、医師それに儀式のための楽師は、全て大学寮という高級官僚選抜試験センターのような役所の縄張りであったようです。「5教科」優先の習慣と形式が21世紀の今尚続いているのでしょうか。
【日本人は堕落しやすい】、気になります。
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