大賀彌四郎 (反逆罪のかたち)

投稿日 : 2022.09.15



高敦は天正3年、有名な長篠の戦の始まる直前、家康の家来だった大賀彌四郎について、次のように興味深い話をわりに詳しく記しています。

この人物についてはウキペディアにもいろいろ記載されていますが、高敦の記述と比較するのは興味深いと思います。話は次のようなものです。

岡崎の家来に大賀彌四郎という者がいた。この人は奴隷からの成りあがり者ではあるが、とてもよく働くので家康は三河奥郡24の郷の税の集金に当たらせていた。お陰で一族は大いに繁栄したが、次第に驕るようになり、最近は家康を滅ぼそうと思うようになって、まず、家康と三郎(*信康)を不和にしようとたくらんだ。そこで、山田八蔵重秀、倉地平左衛門、小谷甚左衛門らと密に諮って、武田勝頼に通じて次の策を持ち掛けた。

「家康は浜松と岡崎の城を行き来している。時を見計らって自分は岡崎の城門へ先回りして行く。一方、勝頼には三河の設楽郡作手まで進軍してもらっておいて、夜中に先軍の2~3隊にこっそり岡崎に来てくれれば、自分は「家康が帰った」といって門を開けさせ、そこで竹田勢を城へ入れれば直ぐに三郎信康を殺せる。

そうすれば三河と遠州の人質はみな岡崎城にいるので、勝頼は戦わずして三河・遠州の人民を支配できる。

浜松の軍勢は200~300はいるが、岡崎の妻子を武田が捕らえると動きが鈍くなるだろう。大久保一族はなかなか降参しないだろうが、彼らは貧乏で手柄を上げるほどの力はない。上和田にいる妻子は矢矧(*矢作)川を越えて尾張へ逃げるだろうが、川向こうで小谷甚左衛門と山田八蔵が待ち受ければ捕らえてしまえる。そうすれば家康も浜松へは帰られず、船で伊勢へ退くか、吉良から尾張へ海を渡るだろう。そうして三河と遠州は日を待たずして勝頼の手中に収められる」と。

勝頼は愚かにもこのアイデアを受け入れて、成功した後の恩賞を彌四郎に約束し、設楽郡築手へと兵を進めた。

ところが山田八蔵が考えを翻して、「いろいろ考えてみても信康を殺すことは赦されないし、この企ては受け入れられない」と密に岡崎城へ行って信康に「あなたの信じてもらえなければ、誰かを自分の家に行かせてその謀略を尋ねさせてほしい」と伝えた。信康は直ぐに彼の話を浜松の家康に報告した。

小谷甚左衛門は計画が発覚したのを知って遠州の国領の郷に逃れた。渡邊半蔵守綱が捕らえようとすると、天竜川に飛び込んで泳いで逃走し二股の城へ入り、そこから甲陽へ逃げようとした。しかし、今村彦兵衛勝長(桁之助重長は叔父である)と大岡傳蔵清勝(孫右衛門勘宗の子)がさっそく彼を取り押さえ首を取った。(これで勝長は褒美をもらい、清勝は怪我を負った)反逆の張本人である大賀彌四郎は岡崎の町役人、岡孫右衛門助宗に生け捕りにされた。

大久保忠世は、大賀彌四郎を馬の鞍に後ろを向かせて縛り、彼が反乱のためにと用意していた旗を立て、首に首輪をはめさせた。

そして、岡崎城下を法螺や鐘笛太鼓を打ちならして引き回したが、途中の念志原(*根石原:岡崎城から1kmほど東の河原と思われる)で、彼の妻子8人の磔を見せた。

彌四郎はべつに悲しむ様子もなかったが、何を思ったか顔を少し上げて、「お前たちが先に行ったとは目出度い。自分も後から行く」といった。

それを聞いて周囲の者は、彼の振る舞いを嫌い口々に非難した。その後、大久保は彼を浜松に連れて行き、城下を引き回してから岡崎へ引き返し、町の四辻に生き埋めにして首に板をはめ、10本の指を切り落として彼の顔の前に並べ、足の筋を切って竹鋸で往来する人に挽かせた。

これまで彼を恨んできた人々がやって来て、竹鋸を挽いた。彼は7日目に遂に死んだ。家康は下賎のものを登用してしまったことを後悔した。

このように勝頼らの計略はうまく運ばなかったので、勝頼は今度は二連木を窺った。家康は吉田城へ移動し、三郎信康は山中の法蔵寺に駐屯して姜原まで勝頼に迫った。勝頼はここで遂に戦いを始めた。

これが長篠の戦の始まりのようです。

当時の事、このように処せられる反逆罪は普通だったのでしょうが、なかなかのものです。現在ではもちろん考えられないのですが、一般庶民に対する反逆罪というものがあるとしたら。鋸の刑の代わりは何がふさわしいでしょう?