信長の面会を断った松平康忠

投稿日 : 2022.12.15


本能寺の変が起きる少し前、信長-家康の連合軍が甲斐の武田を滅ぼして信長が凱旋する途中のこと、高敦は興味深い話を記しています。

天正10年4月

13日 信長は足高山を遠望して富士川を越え、吹上六本松、和歌の宮や、興国寺、差三枚橋の城を訪ね、清見が関、田子の浦、三保などの名勝を遊覧して江尻で泊まった。

信長はさぞかし上機嫌だったことでしょう。

15日 家康は信長より3日早く浜松へ帰り、信長は大堰川を渡って遠州の佐夜中山を経て、掛川の城に入った。

16日 信長は天竜川を渡った。信長は舟橋の監使、小栗仁右衛門忠吉と浅井六之助道忠に黄金を与えた。やがて信長は浜松城に入り、家康と面会して大変なご馳走で歓迎された。

信長は奉行の酒井忠次に向って、「自分が天下を取っているのは、長年徳川家が東の大敵を抑えてくれたお陰である。苦労して駿河を支配し、今は自分の為に宿を設けるなどして奔走してくれている。どう感謝したらよいだろう。去年来、東国を征服するためにと三河の吉良に糧米を8千石(4斗入りで2万俵)おいてあるが、武田が滅び北条も降伏しているので、もう戦のために糧米を使う必要はない。徳川殿が東国の番鎮であるから、早く徳川の功臣にこの米を配分せよ」と命じた。このことは菅谷九右衛門長頼に伝えられた。

その次の行が気になります。

深夜に信長は酒井忠次と閑語した。

深夜とはどういうことでしょう? 薄暗い灯の下でとなると、ひょっとして密談では? 更に高敦は次のように記しています。

17日、信長は、長澤ノ松平上野介康忠に面会を申し込んだが、康忠は故あって会わなかった。信長は使いを送って黄金と刀を贈った。

信長の面会を断る? しかも、断られた信長の方が金品を贈っている、とはどういうことか・・・何かありそうと、邪推する誘惑にかられます。そもそもこの長澤ノ松平上野介康忠とは何者か?

高敦は、長沢という地に住んでいた長澤ノ松平一族に関係する事項を結構記しています。次は康忠についての最初記事です。

天文15年、
〇この年、長澤の松平上野介政忠の子、源七郎生まれる。後の上野守康忠である。彼の母は廣忠の妹である。後年政忠が戦死して酒井左衛門尉忠次に再婚して「吉田殿」と呼ばれた。

家康との関係は次の図のようなものとおもわれます。55e9885d26b8a227f7b0948f902100d65055fcbe.jpg

廣忠とは松平廣忠のことで、家康の父親です。また、廣忠の妹は碓井姫と呼ばれた人で、夫の松平上野守・政忠が戦死したのち、酒井忠次と再婚して、その時は吉田殿と呼ばれたようです。つまり康忠は家康の従弟で、家康の妹の婿でもあります。これが本当なら、家康にとって、康忠、忠次は側近というよりは、むしろ身内も身内の関係になります。

永禄5年8月6日 長澤の松平源七郎康忠(27歳)が領地の証文を受け取った。

木活字版には次のような証文が示されています。a8061407d9bbf3f117c5c0d1fef76d9985634e39.jpg

天正16年10月
15日 三河の長澤の領地で、松平庄右衛門近清が死去した。この人は松平兵庫頭親廣の4男で、母は桜井の松平内膳正信定の娘という。長澤本家の上野介康忠も、今年引退して、家督を嫡男源七郎康直に譲り、京都で余生を楽しんだ。

最近、この人物は架空の人だという人もいるようですが、このように、上野介康忠はどうやら実在の人物だったようです。もっと詳しい記述は、『寛政重修諸家譜』にあります。ウキペディアによれば、これは1799年堀田正敦を責任者として編纂が始まり、1812年に完成した江戸幕府の大名や旗本の家譜集です。『武徳編年集成』は寛保元年(1741年)に徳川吉宗に献上されたので、この家譜集はこれより70年ほど後にできたことになります。

次が家譜集に書かれた松平上野介康忠についての説明です。中でも気になる部分を太字にしました。

『康忠  源七郎、上野介、号(玄西、元斎) 母は清康君の御息女
永禄3年父政忠討死し、康忠未だわかかりしかば祖父浄賢これをたすけて・・・。(中略)

康忠、岡崎三郎信康君に付属せられて家老職たりしに、事ありしとき康忠も御勘気かうぶり、後ゆるされ仕え奉る。(中略)

元和4年8月10日京師に於て死す。年73歳 法明 源斎、妻は廣忠卿の御息女、矢田姫 (以下略)』(寛政重修諸家譜 巻第40)

ここで『事ありしとき康忠も御勘気かうぶり』とは、前に拙文『松平信康』で述べた、信康殺害事件です。そこで酒井忠次は、信長が家康に信康を殺害することを命じることになる決定的な役割をしたとされています。これは天正7年のことで、康忠が信長の面会を断ったのは、それから3年ほど後のことになります。

普通に考えると、これほどの近い身内に起きた出来事なので、康忠も気分がいいはずはありません。また、信長も忠次も、すべてを知っている康忠の存在は気になるところだったかも知れません。

信長が康忠を面会を申し込んだのを断ったのは、康忠が万が一の危険を察したか、とにかく内輪もめは家康にとってまずいと判断して身を引いたのか、そんなことより、気楽に京都で過ごした方が賢明だと思ったのかも知れません。 高敦もそこまでのことは書いていません。

本能寺の記事にも彼の名前は登場しません。彼はどのように信長の死や、明智光秀の姿を見ていたのでしょう。

因みに、『寛政重修諸家譜』は、『武徳編年集成』の記述に従っているところが多いとされていて、康忠が実在の人物であると認めています。しかし、康忠が信康の家老だったという記述については『武徳編年集成』には書かれていません。したがって、後日、そのような史実が見つかったのでしょうか?『寛政重修諸家譜』の編纂者の堀田正敦に尋ねたいものです。

ちなみに、この家譜集は、老中・松平定信による寛政の改革で、内政、外交に対する幕政の刷新を図るために、家康の精神に立ち戻る意識改革の一環で編纂されたものだそうで、その内容の吟味は、歴史学者の研究作業ではなく、もっと実務的な意味を持つ緊張感が漂っていた作業だったはずです、a80caf14915119063134c3378260ec83f8648145.jpgしたがって『武徳編年集成』の内容もかなり詳しく吟味されたのでしょう。また、高敦はお雇い学者ではなく、自由な立場で詳しく調査をしたとされていますので、編纂者もセカンド・オピニオン的に彼の考えを吟味した結果、多くが採用されたのかもしれません。筆者が親から受け継いだものの中に、家譜の書き方マニュアルがあります。これは筆者の先祖で、姫路藩に務めていた信包とか、次の代の空水と号した人の時代に、藩から支給されたもののようで、そのフォーマットに従って書いた下書きも残っています。おそらく、これは『寛政重修諸家譜』を編纂する資料とするために、幕府の命令で各藩に調査させた、編纂作業の痕跡かもしれません。