都の大スキャンダル:イケメン貴族の処刑(その3)

投稿日 : 2023.08.31


山科言経が都を放逐された事件は、天正13年(1585)6月で、ちょうど「本能寺の変」の3年後の事です。その時、彼は42歳でした。

当時の天皇、正親町(おおぎまち)天皇によって、彼のほか、冷泉為満(26歳)と四条隆昌(29歳)が勅勘(天皇の怒り)を受けて都を放逐されました。この事件のために、後に教利君が山科家を継ぐことになります。この事情も簡単ではありません。

ここで、冷泉為満(26歳)と四条隆昌(29歳)は冷泉為益の息子です。また、言経の奥さんは彼の娘でした。したがって、兄弟と義理の兄がそろって勅勘を受けたのです。

その理由を探る上で筆者が重要なことと想像したのは、冷泉益為の三女と言われる女性の存在です。彼女は、為子といって、その時期、正親町天皇の息子の皇太子、誠仁親王の女房の典待局(すけのつぼね)という、なかなかの美人で、皇太子のお気に入りの人だったようです。この事件の時、彼女は17歳ぐらいだったと思われます。

言経の父親の言継は天皇の最側近で、財政難にあえぐ禁裏の財務大臣のような立場で宮廷の財政をきりもみしていた実力者です。彼の日記『言継郷記』にあるように、天皇とは「鮎が手に入ったので食べに来ないか」と誘われるような間柄だったので、彼が息子の嫁の妹を皇太子の女房につけられたのも不思議はなさそうです。

少し遡りますが、高敦は永禄5年(1562)10月28日の条で、『正親町天皇は隠密裏に尾張清州へ、北面立入右京進頼満を勅使として派遣した』と記しています。

多分勅使は信長に「余人をもって代えられない」と言って、『1) このところ衰亡している公卿を再興させるべし。2) 大内の租税の取り立てを中止させるべし。3) 御所を建て直すべし。と命令した』とあります。天皇は『金がないので助けて‥」とは言えないので、命令なのです。

その機会をとらえた野心に燃える信長は上洛を目指したわけです。彼は足利幕府の再興を目論んでいた足利義昭をサポートして結局上洛を果たしますが、彼にとっては天皇も将軍もどうでもよくて、天下を取るためのアイテムにすぎなかったようです。

彼はこうして一応天皇の望みを叶えたわけですが、彼の手法はなかなか激しく、天皇は次第に彼の野望を見破り、自分たちがミイラ取りのミイラになっていく様子に危機感を強めたようです。しかし、資金源を握られているので、どうにもなりません。その愚痴を言継は聞かされていたと想像できます。言継も彼の資金集めの仕事上、信長にあまり好意的ではなかった様子も彼の日記から嗅ぎ取れます。

天正7年(1579)3月2日 山科言継は亡くなります。