都の大スキャンダル:イケメン貴族の処刑(その7)
投稿日 : 2023.08.31
それから6年ほど経った天正19年(1591)、四辻家を継いでいた四辻季満が勅勘を受けて放逐され、そのため山科家を継いでいた教遠が四辻家に戻され、季継として家を継ぎます。そのため、山科家は再び跡継ぎが無くなり、高倉家に養子に入って範遠と名乗っていた美男子が山科家を継いで、教利君となったわけです。
やがて、慶長3年(1598) 秀吉が他界し、実権は徳川家康に移ろうとしていました。その次の年、慶長4年、山科言経は、家康の世話で復権して宮廷に復帰、山科家を再び継ぐことになります。そのため、教利君は山科家から追い出され、山科家の分家として猪熊を名乗ることになるわけです。この時、彼は16歳。
時を経るごとに彼はプレーボーイとして都で有名になり、今ならファッション雑誌の表紙を飾るようになっていったようです。
慶長8年(1603)、出雲の阿国が歌舞伎の踊りを始めたといわれますが、それは教利君のファッションが影響したとも、どこかで読んだように思います。
高敦は慶長12年(1607)12月14日の条で、『この日の頃、相国寺の承兌長老寂久が死亡した。彼は密かに淫行にふけり蓄財していたという』とあります。
『当代記』によれば、『相国寺の兌長老(当時家康に重んじられ洛中洛外の寺を取り仕切り、金閣寺などを領していた)が去年の秋の初めから病気になって今日死亡した。僧にあるまじき行為をして、成人とはいえないと京都では嘲笑された。金銀を多く蓄えていたという』とあります。高僧がこのような始末では、似たことはどこかしこであったのではと想像できます。
そうして、教利君は、慶長12年(1607)にも女官との密通がばれて一度大阪へ逃げたそうですが、また戻って来て女官との密通を続けたということです。当時の官位は正五位下・左近衛少将というれっきとしたお公家さんです。
慶長14年(1609)7月、「猪熊事件」が内部告発で発覚します。後陽成天皇はカンカンに怒り、関係者全員を殺せと命令します。教利君は織田頼長という「かぶき者」と呼ばれた人の入れ知恵で西国へ逃亡、指名手配されます。彼は朝鮮へ逃げる算段もあったともあります。しかし、供の者に裏切られ結局逮捕されます。
都の人々も公家たちも「どうなるのだろう?」と興味津々で、中には火の粉が飛んでこないかと冷や冷やで、見守ったはずです。都の所司代が詳しく調査しました。
高敦は、『慶長14年10月2日 この日、板倉勝重は両伝奏(天皇への伝言役の2人の公家)へ家康の密令を天皇へ伝えた。それは「朝廷での不祥事が多い。これは陛下が仁徳によって刑を減らした方が犯人はかえって罪を恥じて慎むようになるはずだから、男女とも死罪だけでなく流刑に処した方がよい」というものであった。両傳奏はこれを天皇に伝えると、怒りが収まって「罪の重さに応じて淫行に関わった連中を遠方の流刑と近くへの流刑に分けて実施せよ」と命じた。そうすると男女ともに罪を自白した。
その結果、猪熊の侍従教利は、秀吉の時代にも淫行の前科あったので、歯医兼保備中守とともに死刑となり、大炊御門侍従頼国と松本少将宗澄(侍従とあるが間違いである)は硫黄が島へ、花山院少将忠長は蝦夷が島へ、飛鳥井少将雅賢は隠岐へ、難波少将宗勝(侍従ではない)は伊豆へ、5人の女性は全員髪を切られ木綿の服を着せられて奴婢2人とともに八丈島へ流された。
なお、烏丸参議左大辨光廣と徳大寺少将實久は罪が軽いので恩赦されたという』
そして、『慶長14年11月8日、流罪の裁きを受けた公家や官女が京都を発って東や西へ向った。親族や家来たちが淀、鳥羽、大津、山科まで送り、涙を流して別れた。今日、猪熊三位教利は浄上寺で、又兼保備中守は常善寺で処刑された』
とあります。
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