『武徳編年集成』について(2024-11更新)
投稿日 : 2023.06.20
『武徳編年集成』は徳川家康の事績を編年体で綴った歴史書で、全部で93巻からなっています。
著者は木村高敦(1680-1742)という江戸中期の幕臣の歴史研究家で、歴史学者の父の手伝いをしているうちに歴史に興味を持ち、晩年にこの歴史書をライフワークとして完成させました。そして、寛保元年(1741)に徳川8代将軍吉宗に献上しましたが、翌年の11月1日に満62歳で亡くなっています。高敦の詳しい出目や江戸幕府での活躍、この歴史書を執筆する日常などについては、後で紹介する太宰純(春台)による「墓碑」を参照してください。
この歴史書を書いた経緯について彼は次のように記しています。
『自分は若い時に家康の一代記を詳しく書いてみたいと思ったが、生きている間には無理だろうと思い、まずは関が原の大戦について『武徳安民記』31巻を上梓した。また、自分の実父、平(根岸)直利による姉川、味方が原、長篠、長久手の戦いを述べた『四戦紀聞』を校訂し、その合間に『武隠叢語集』を簡略にした『武家閑談』7巻を上梓した。続いて『続閑談』20巻を書いて毎年これに手を加えていたが、次第に自分に先がなくなったのを自覚するようになり、ようやくこの『武徳編年集成』の原稿ができた』そして、『この歴史書を書いた目的は既存の歴史書や諸家々に伝わる家伝の齟齬や間違いを糺すためだ』
高敦が徳川8代将軍吉宗(在職1716-1745)に献上した原本は現存しないそうで、日本古典籍総合データベースのリストによれば、国内では43の写本などが残っています。筆者の所蔵しているものは拙修斎叢書の木活字版で、これは名著出版から1976年に出版された写真版 の底本と同じです。拙修斎叢書の元のテキストは、早稲田大学本という天明6年(1786)版(木活字版)が使われています。この版は宮内庁書陵部のリストにもあります。全93巻は図のように25冊に収められています。国文研データセットでは原文が公開されています。
ここでは、全巻を今の言葉に直して簡単のために尊称、敬語などは一切省略して、次の「家康の誕生」と「死去」の記述の例のような形で、原文を読みやすくしてみました。(*)は筆者の注です。
第一巻の本文は、徳川家康の誕生を記したこの条から始まります。
天文11年11月26日、参州額田郡岡崎ノ城ニ於テ 清和天皇廿五世 徳川贈正二位大納言廣忠卿ノ御嫡男 東照大神君御誕生アリ時ニ祥端多シ母公ハ参州碧海郡刈谷尾州知多郡小川両城主水野右衛門太夫忠政ノ女也蟆目ハ石川安藝守源晴兼御胞刀ハ酒井雅楽助源正親是ヲ役ス御幼名ヲ 竹千代君ト称シ奉ツル
筆者は次のように訳してみました。
天文11年(1542)11月26日、三河(*現在の愛知県南部)額田郡の岡崎城で、松平廣忠の後継ぎ(*後の徳川家康)が誕生した。幼名は竹千代である。母(*後の伝通院)は同じく三河碧海郡の刈谷城と尾張の知多郡小川城の城主、水野右衛門太夫忠政の娘である。蟆目(*魔除けの弓を射る係り)を石川安芸守晴兼が、胞刀(*へその緒を切る係り)を酒井雅楽助正親が務めた。
そして、第90巻、
元和2年(1616)正月21日、家康がひいきにしていた呉服屋の茶屋四郎次郎道晴が京都から駿府の家康を訪れた。家康は彼に京や大坂の事情を尋ねた。道晴は「変わりはなく商人は商売より酒席や茶会に耽っている。新鮮な鯛を柏の油で韮炒めにするとうまい」などと歓談した。榊原内記清久が久能浜でとれた鯛を献じると、家康はさっそく料理人にそのように調理させて賞味した。その後家康は田中の城へ出かけて近辺で放鷹を楽しんだが、夕方城へ戻ったところで腹痛に襲われた。医者の片山興庵法印を呼んだが留守で来られず、萬病園という薬を飲み、落合小平太道次を江戸へ行かせて病状を秀忠に伝えた。しばらくして興庵は田中の城へ来たが家康に叱られた。
とあり、その後、彼の病状は悪化して、やがて、同年旧暦4月の条には、
17日、太政大臣、従1位、前の征夷大将軍、右近衛大将、浄和弉學院別当、源氏長者家康が75歳で死去した。⦅遺言には「秀忠は常に武を忘れるな」とあったという⦆
最近は徳川家康については、その道の専門家による解説が沢山あります。しかし、解説ではなく、原文を通読して、当時の人々が見ていた家康像を感じるのも興味深いのではないでしょうか。
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